見出し画像

【話】髪を切った日の話


髪を切ったところで、何も変わるわけではないんだけれど、それでも私は、1年間紆余曲折しながら地道に伸ばしたセミロングの髪の毛を、ばっさりと切った。

「ボブくらいじゃなくていい?結構短くなるけど」

オーダーした髪型がそれなりに短いショートヘアだったせいで、長年担当してくれている美容師の金子さんが一応断りを入れるように確認した。

「いいです。ボブだとすぐに伸びちゃうので。いっちゃってください。ばっさりと」
「了解。じゃあ、要らない部分、とりあえずざっくり切るから」

そう言って、毛先10センチ程をザクザクとはさみで切りはじめた。肩近くまであった髪は、あっという間にあごのライン程の長さになった。そうして、髪の毛を染めた後、私の髪は短く整えられ、量もすいた。サクサク、と髪をすく音が響く。

「なんかあったの?失恋とか」

金子さんが尋ねた。普段はあまりプライベートなことは聞いてこないけれど、つい2ヶ月前まではロングヘアに向けて手入れがしやすいようにと、わざわざ高いトリートメントまでかけていたのだ。短くするには、それなりの理由があると思ったに違いない。

本音を言うと、疲れていた。色々なことに。大げさに言えば、人生に。でも、それを上手く説明出来る気がしない。

「失恋じゃないですけど、まあ、色々あって。気分を変えたいなって」
「仕事が大変?」
「…そうですね。うん、仕事ですね。なんか疲れちゃって、一旦リセットしたくなったんです」
「そっか。じゃあ、いい感じに切るからね」

とくにあれこれ聞かれることも励まされることもなく、金子さんは淡々とした態度だった。もう、かれこれ10年の付き合いだ。私があまりプライベートを詮索されるのが好きではないことをよく知っている。

鏡に映る、だんだんと髪が短くなっていく自分を見つめた。少しだけ軽くなった頭とともに、気持ちも軽くなったような気がした。

「とりあえず、この辺の長さにしとこうか。久しぶりのショートだし」

最終的に、イメージしていた短さよりは長めに落ち着いたけれど、納得の短さだった。後ろは少しだけ癖が出やすいからと、ヘアアイロンで綺麗にまっすぐにしてくれたあと、ヘアオイルを少しだけつけて、まとまりを出してくれた。

金子さんは担当客が多い。だから、お会計はいつもアシスタントさんがしてくれる。この日もいつもと同じで、私がロッカーに荷物を取りに行く直前に、

「今日はありがとうね。また」

と言って、いつものように他のお客さんのところへ行った。

ロッカーから荷物を取り出しお会計に向かうと、一度は去った金子さんがレジに立っていた。不思議に思い向かうと、

「仕事、大変そうだけど、頑張って。髪型いいかんじだよ。また来てね」

そう言って、今度こそ本当に奥へ引っ込んでしまった。いつもはこんなことしないのに、少し気を遣わせてしまっただろうかと思ったけれど、その気遣いが嬉しかったから、申し訳ないと思うのはやめた。

お会計を済ませて外に出ると、春のあたたかな日差しとは裏腹に、冷たい風が強く吹いた。せっかく整えてもらった髪も、強風に煽られてすぐにぼさぼさになってしまった。たったそれだけのことで気持ちはめげそうになったけれど、手櫛で整えて「大丈夫」と呟いて駅まで歩いた。

駅のトイレの鏡で髪を綺麗に整えた。以前より少し暗めのトーンに染めた髪は黒に近く、短く切った髪の毛も相まって幼く見えた。見た目は随分変わった。このショートヘアは気に入った。とても。でも、気分は思ったほど変わらなかった。別に、何が変わるでもないと分かっていたけれど、もう少し、パッと明るい気持ちになれると思っていた。

結局見た目ではなくて、心の問題なのだ。

私の根本が変わらない限り、心の靄は晴れないし、気持ちは明るくならない。分かり切っていたことをあらためて思い知らされ、また気持ちが滅入ってしまった。

まだ家に帰る気分にもなれず、せっかく髪を切ったのだ、滅入った気持ちを持ちなおそうと、市内まで電車で行った。市内は平日毎日仕事で行く。とりあえず、行きつけのコーヒーショップに立ち寄った。いつも頼むホットココアをテークアウトで注文し、レジ隣のカウンタースペースで出来上がるのを待っていた。

「ホットココアをご注文のお客様、もう少しですので少々お待ちください」

作り手の店員さんに向けて「分かりました」の会釈をすると、その店員さんが言った。

「あれ、髪、短くされたんですね」

きちんと顔を見ていなかった私は、ちらりと目線を上げて店員さんの顔を確認した。平日に立ち寄る時、かなりの頻度でよく目にする、いつもの店員「立野さん」だった。対応する時の感じが良くて、顔だけじゃなくて名前も覚えていた。

でも、話したことは一度もない。

「え、あ、はい…」
「あ、すみません、急に話しかけて。平日、いつも買いに来てくださいますよね。顔を覚えていたので、知り合いみたいに勝手に思っちゃって、すみません」

立野さんは少しバツが悪そうにして、笑った。

「客の顔、ちゃんと覚えてらっしゃるんですね。すごい」
「全員ってわけではないんですけど、お客様、週3日から4日くらいのペースで来てくださるので覚えています」
「なんか、お恥ずかしい」
「いえ、常連さんになっていただけるの、僕らとしてはとても嬉しいです」

普段はお金と飲み物のやりとりだけなのに、その日は混んでいなかったせいか、会話らしい会話をした。

「いいですね、髪を切ると気分が変わりますよね」

立野さんはそう言ってにこりと笑った。あいにく、そうはならなかった。

「と思って切ったんですけど、なんかいまいち、気分が変わらなくて」
「あ、そうでしたか。髪型、お気に召さなかったですか?」
「いえ、髪型は気に入りました。とても。でも、気持ちって見た目が変わっただけではそんなに変わらないですよね。結局自分の問題というか。すみません、暗くて」

満足した髪型なのに、どうしてこうも卑屈になってしまうのだろう。髪型のせいではなく、自分の気持ちのせいなら、なおさら卑屈になってはいけないのに。

「お待たせいたしました」

そうして、ホットココアが差し出された。すみません、と一言謝ってさっさと立ち去ってしまおう。そう思って静かにココアを受け取ったと同時に、立野さんがまた話し出した。

「お客様、土日はお休みですか?」
「あ、はい。仕事は平日だけなので」
「じゃあ、今日のご予定は?」
「とくに決まってなくて、まあ、適当に…ぼちぼちってかんじですかね」

えへへ、と小さく笑ったけれど、笑顔は引きつるだけだった。

「お客様が何に悩まれているのか僕には分かりませんけど、気分はすぐに変わらないこともありますよ。でも、髪型が気に入ってらっしゃるなら、少しずつ気分も明るくなると思います。だから、これ、どうぞ」

そう言って、立野さんは笑顔で焼き菓子を差し出した。季節限定の、桜の形をしたクッキーが透明の包装紙に数枚入っていた。

「今日は土曜日です」
「は、はぁ…」
「今は13時で、今日の天気は晴れです。少し寒いですけど、日差しは暖かいのでお散歩日和かと」
「そうですね…」
「ココアとこのお菓子持って、そのへんぶらっと歩いてお散歩してください。お散歩いいですよ。すごく元気にはならないけど、気持ちが整う気がするんです。僕は気分が晴れない時とか落ち込んだ時はまず散歩します」

話の流れにいまいち付いていけず、生返事のような反応になっている私に、立野さんは散歩の魅力を語った。そのうち、次のお客さんがやってきて、立野さんは新たなドリンク製作に取り掛かることになり、私との会話は強制終了のような形になった。

「あの、お菓子のお金、おいくらですか」

そう尋ねたけれど、立野さんはドリンク製作に勤しんでいて、ただ首を横に振り続けた。いいです、いいです、いりません。そう、口パクで言っていた。その厚意に甘える形で、私はそっとお菓子を鞄に仕舞った。今度こそ、その場を立ち去ろうと、立野さんに会釈をしてお店を後にしかけた時、「お客様!」と私を呼ぶ立野さんの声がした。振り返ると、

「よい休日を!」

そう言って、にっかりと笑っていた。
今日初めてまともに話した人なのに、昔からの知り合いのような気がした。私も笑顔を返したけれど、立野さんに背中を向けて歩き出した後、目にはじんわり涙が浮かんだ。飲み物の暖かさと、立野さんの優しさと、冷たい外の空気と、それから金子さんの気遣いと。色々なものが一斉にこみ上げて、胸に染みて、そうして目から雫になって溢れそうだった。

今日は土曜日。休みは始まったばかり。散歩をしよう。じわじわと、心の靄が晴れるように。少しずつ、自分と向き合えるように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?