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冬香ちゃんの魔法

中学生の頃、常設の陸上部がないくせに、春になると市内の中学校合同の陸上大会が開催されていた。それにともない、その時期になると期間限定で、本職(本当に所属している部活)と掛け持ちの陸上部員が現れる。私もその一人だった。

陸上部員に選出される理由は至ってシンプルで、中学一年生の場合は春の体力測定で成績が良かった人が選抜され、中学二年生以降は一年時の選抜組+希望者で成り立つ。

陸上部に所属しなければいけないなんて知らない当時の私は、中学一年生の春、ぽかぽか陽気の中で行われた体力測定を本気で頑張った結果、学年で50メートル走が一番速い女子、という称号を得たとともに、有無も言わさず陸上部員(短距離・100メートル走担当)となってしまった。

練習がとてもきついらしい。
そんな噂を聞いてげんなりしていたけれど、それよりなにより不安だったのは、短距離チームに仲の良い子がいないことだった。

私の通っていた中学校は、二つの小学校の卒業生が通うことになっていたので、だいたいクラスの半分は同じ小学校出身、もう半分は初めましてな人たちだった。同じ小学校出身の子たちも何人か選抜メンバーに選ばれたものの、運悪く長距離チームの所属だったので、せいぜい練習場に一緒に行くくらいしかできそうになく、私はさっそくアウェイな気分だった。

そして短距離チームはなぜか、今で言うところのウェイ系と言えばいいのか、クラスの中心的存在になるような子たちが多く、それもまたアウェイだった。その中には、学年で一番可愛いと言われている、クラスの中心「的」ではなく、明らかに「中心」な子・冬香ちゃん(仮称)がいて、私は話したこともないくせに怖いと思っていた。その子にいじめられたわけでもないのに、派手な子はきっと怖い、という先入観が抜けなかった。

私は控えめな芋っぽい人間だったので、なんでこうも毛色の違うグループ所属になっちまったんだ…と絶望した。厳密に言うと、短距離チームにも同じ小学校出身の子が一人だけいた。いたのだけれど、その子もまたクラスの中心的な子たちと仲の良いタイプだったので、そこに混ざれるわけもなかった。

初めは種目別の練習ではなく全体練習だったおかげで、陸上部としての活動当初は何とか孤立せずに済んだ。が、大会が近づくにつれて全体練習は終わり、ついに種目別の練習に取り掛かる日がやってきた。

グラウンドに出る前、荷物の整理をしてた時、すでに短距離チームのメンバーは固まって過ごしていた。ああ…輪に入りづらい、どうしようか、とまごついて居た時、集団の中から「夕子ちゃん、行こう」と私を呼ぶ声が聞こえた。

顔を上げると、今の今まで一度も話したことのなかった、別の小学校出身のウェイ系女子で学年一可愛いとされている冬香ちゃんが、私に向かって手招きをしていた。私を呼んでくれたのは、同じ小学校出身の子ではなく、私が怖いと思い込んでいた冬香ちゃんだった。

呼ばれたことも勿論嬉しかったのだけれど、それ以上に、話したこともないのに私の名前を覚えていたのか、というその事実が嬉しかった。もたつく私の手を引いて「早くアップしよう」と駆け足でグラウンドに向かう冬香ちゃんの、その明るくて優しくて可愛い笑顔を今でも覚えている。話したこともない子の手を、さらっと引いて走る、なんて自然なことをしちゃう冬香ちゃんを見て、ああ、この子はすごく可愛いし、これはモテるだろうし、私の救世主だ、と思った。

冬香ちゃんの「夕子ちゃん、行こう」というたった一言のおかげで、私はすんなりと短距離チームに混ざれたし、練習ものびのび楽しく出来た。

その結果、私は本番で予選を勝ち抜き、なんと決勝に進んで七位入賞という実績をおさめた。冬香ちゃんは残念ながら予選敗退だったけれど、私の入賞をすごく喜んでくれた。

五月の陸上大会を終えたその二か月後に、冬香ちゃんは家庭の事情で転校してしまった。陸上大会が終わってからはまた元の日常に戻り、冬香ちゃんと話すこともあまりなくなっていて、転校が決まってからも特別話すわけでもなく、あっという間に冬香ちゃんは去っていき、私もまた、そこに寂しさを覚える暇もなく、あっさりとお別れしてしまった。

ただ、私はその後中学二年生になっても三年生になっても陸上を続け、高校生になってからは、本格的に陸上部に所属して(臨時ではなく)、中学時代も含めれば六年間も陸上を続けた。成績は特別良いわけではなかったけれど、走ることはとても楽しかった。

あの時、冬香ちゃんが声をかけてくれなかったら、多分ここまで陸上を続けなかったのではと思う。中学一年のあのグラウンドを、陸上の楽しさを感じることもなく、早くこの空間から抜け出したいなと思いながら走っていたのではと思うと、冬香ちゃんの存在はとてもとても偉大だったのだな、と大人になった今あらためて思った。


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