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【話】消えない赤ペン

人は誰でも心の中に、初恋の人をずっと留めているって。そう言っていたのは道子先生だったっけ。結婚していた道子先生は、今でも時々思い出すらしい初恋の人について、とてもしんみりと、だけどとても特別なことのように語っていた。

今になってこんなことを思い出したのは、きっとこの間の飲み会のせいだ。私がこの歳になるまで未だに恋人という存在がいないこと、そして恋愛にそこまで興味がないということが一般的におかしいと思われている、ということに、飲み会で指摘されて気づいたからだ。それまで何とも思っていなかった。だって、友達もそこそこいて、サークルもバイトも適度にやって、趣味だってあって。そこに恋愛という要素が欠けていることは、私にとって特別重要ではなかったのだ。ただ、どうしてこうなってしまったのか、その原因を考えている時にふと道子先生の話を思い出した。

道子先生の話を聞いた時、内心小馬鹿にする自分がいたけれど、今ならはっきりと分かる。道子先生だけじゃない。私もずっと心の中に初恋の人を留めているのだと。その人の影がある限り、私はずっと恋なんてできないんだろう。むしろ、する気もないのだろう。

今、何をしているのだろう。彼は、どこにいるのだろう。この一途と言うのかさえも分からない少し異常な気持ちを、私は一体いつまで抱きつづけるのだろう。


「古谷、赤ペン」

持田はそう言って手のひらを上にして待っている。「貸して」のサインだ。自分で赤ペンを持っているくせに、こうして机をつけて班になった時だけ、いつも私のものを使う。でも、これは私だからやっている行動ではない。一緒の班になる前は、別の子に同じことをしている姿を何度も見たことがある。変な奴、と思って見ていたけれど、気づけば自分も同じことをされているというわけだ。

「貸さないって言ったらどうするの?」

そう言って、一瞬貸すのをためらうと、差し出した手を机に少し叩きつけて不機嫌な顔をする。早くしろって、そう思っている。私は少しニヤついて、その手のひらに赤ペンを落とす。ポトン、と。すると持田の顔は少しずつ満足げになっていく。それがおもしろい。

「自分の使えばいいのに」
「インク切れてんだよ。それにこのペンのが使いやすい」
「インク切れてるなら新しいの買いなよ。そんで同じの買えばちょうどいいじゃん」
「めんどいし。節約っつーことで」

テンポよく言い訳するのは持田の得意技で、いつもこんな調子ではぐらかされては毎度ペンを貸すはめになった。でも、私はそれが嫌いじゃなかった。むしろ好きだった。私だけじゃないのは知っていた。別に誰だっていいのだ。ただ持田が借りようと思ったのが私だった、ただそれだけのこと。ただそれだけのことだけれど、好きだった。
そして、その行為だけじゃなくて、持田自身のことも好きだった。ずっと前から好きだったわけじゃない。はっきり言って好きになったきっかけなんてよく分からない。気づけば好きになっていたというやつだ。でも、好きだと意識し始めたきっかけを考えるといつも、頭に浮かぶのはこの赤ペンだった。青でも黄でも緑でも、シャーペンでもない赤ペン。

班になるのは数学と英語の授業の時だけだ。それ以外はみんな黒板に向かって列を作っている。その時、持田は私の後ろの席になるけれど、わざわざ背中をつついて赤ペンを借りるということはしなかった。その時は自分の赤ペンを使っていた。インクが切れているはずなのに。

「持田はさ、なんでいつも奈央の赤ペンを借りるんだろうね」

同じ班で、親友のみっちゃんにそう聞かれたことがある。みっちゃんは班にした時、私と向かい合うようにして座っている。みっちゃんだって持田と距離が近いのに、持田がみっちゃんに赤ペンを借りる姿を私は見たことがない。

「わかんない」
「やっぱ奈央のことが好きなんだよ」
「それはないよ、多分。だって持田、前の班の時はまーちゃんに借りてた」
「いや、まーちゃんはイジられキャラだから」

イジりやすい子の持ち物借りて、なんだかんだおちょくる、という原理は分からなくもない。現にまーちゃんは本当にイジられキャラで、なにかとからかわれたりおちょくられたりしていた。男子が女子に絡むことはそんなに頻繁に見られる光景ではないけれど、まーちゃんだけは違って、いつもクラスの男子の誰かがまーちゃんに絡むほどだった。
でも、だったら尚更私に赤ペンを借りる意味ってなんだ。特別イジられるようなキャラでもないし、可もなく不可もない普通な私に赤ペンを借りる意味ってなんだ。

「ますますわかんない」

そうボソッと呟いた私を見て、みっちゃんはふっと笑った。みっちゃんは私が持田を好きなことを知っているから、きっとこの赤ペンに悩まされている姿を微笑ましく思っているのだろう。そして赤ペンを借りることが、イコール特別だと、私に言ってくれるのだろう。私だってそう思いたい。これが特別な行為であると。持田が私に好意を抱いてくれているという証だと。


結局そのまま卒業の日まで、持田は私に赤ペンを借り続けた。インクが切れているという見え見えの嘘を最後まで突き通して。そうして私も、聞かなかった。なぜ借り続けるのか、なぜ私の赤ペンなのかということを。

卒業式の当日のことだった。

「なに、これ」

持田が私に赤ペンを差し出してきた。それは、私が今まで貸していたものと同じ種類の赤ペンだった。

「なにって、赤ペン」
「いや、見れば分かるけど。そういうことじゃなくて…くれるの?」
「うん、やる。今までのお返し」
「借りてたから返すってこと?」
「うん」

それが持田の答えだった。
持田は私に赤ペンを押し付けた。ぼけっとしたまま受け取った私はその赤ペンをじっと見つめた。まだペン先に樹脂ボールがついている。ノック式のそれを何度かカチカチと押して、出したり引っ込めたりした。正真正銘、誰もまだ使っていないピカピカの赤ペンだった。私はおもむろに鞄の中からメモ帳を取り出して一枚だけ破ると、赤ペンと一緒に持田の机に置いた。

「なに」
「樹脂ボール取って、ついでになんか書いて」
「なんで」
「使いかけのペンがいいから」
「は?意味わかんね」

そう言って持田は笑う。変だと思っただろう。新品をあげたのに、あげた相手はそれを今から使えと言うのだから。しかも使いかけのペンがいいなんて、そんなことを言う人はきっと私くらいだ。どうしてそんなことを言ったのか。それは今までと同じように、私の赤ペンを持田に使って欲しかった。ただそれだけだった。むしろ、持田が使わない赤ペンなんてもらいたくなかった。

「何書いたらいい?」
「なんでもいいよ。別に言葉じゃなくても丸でもグルグル試し書きでもいいし」
「…よし、描いた。これでいい?」
「うん、オッケーオッケー。ありがとう」

持田が描いたのは下手くそな猫の絵だった。

「下手くそ…」
「うるっせ」
「でも、ありがとう」
「おー」

そして持田は席を離れ、仲の良い男子の元へ行ってしまった。私はしばらくその下手くそな猫を見つめ、猫とにらめっこ状態だった。下手だった。本当に。でも、私にはその絵がすごくまぶしかったし、その赤色がとても鮮やかに見えた。不思議な気分だった。胸が締め付けられる思いというのを初めて感じた。


卒業式が終わって帰る時、駐輪場には持田がいた。持田は私に気づいたけれど、一緒にいた男子たちと話していたし、私もみっちゃんと話していたから、お互いただ目が合っただけだった。帰り際に何か言ってくれたらと思った。なんでもいい。じゃあねとか、バイバイとか。でも、そのまま持田は帰ってしまった。じゃあねもバイバイも、何も言わなかった。私は喉まで出かけていたその言葉を飲み込んで、何事もなかったかのように帰った。二度とくぐることのない校門を、何のためらいもなく駆け抜けて。

卒業式のことは断片的にしか覚えていない。校長先生の祝辞も、在校生の送辞も、自分がどんな風に卒業証書をもらったかも、全部忘れてしまった。ただ、そんな大事なことよりも鮮明に覚えているのは持田がくれた赤ペンで、そしてそれで描かれた下手くそな猫だった。


あの時持田に何も言えなかったのは、やっぱり私が持田のことを好きだったからで、わざわざ挨拶をするのが恥ずかしかったと言えば、それだけのことだ。でも、言葉では言い表せない何かが、あの時私を躊躇わせたのも本当だ。

今でも、あの時の赤ペンは部屋のペン立てにささったままだ。下手くそな猫の絵は、持田のことを忘れようと思ってビリビリに破いて捨ててしまったけれど、赤ペンだけは捨てられずに、かと言って使うこともなくただ置いてある。

きっとこれからも、この赤ペンが私を支配する。その度に、この赤ペンの思い出を何度も何度も思い出すだろう。そうして道子先生の言葉の意味を、何度も何度も噛み締めるだろう。

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