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後ろ向きあいさつ

 まるで棺桶のようだ。この長方形の箱に積まれて僕たちは、息を潜めて流れに耐えている。
 つり革に吊られるように項垂れる人。椅子にくっついたように固くなっている人。眠気、昨日のストレスと新鮮な憂鬱。朝七時の電車は、そんなもので満たされていた。
 息苦しくて、マスクの顎を少し浮かせて吸い込む。
 ……憂鬱だ。
 深呼吸では解決できないこともある。
 根性論も責任感も無視して、精神は肉体に作用する。足が重たいのは、死んでしまいたいのは病気のせいなんかじゃなくて、自分の価値観の問題なのだけれど。世間ではこれを薬物で矯正するらしいから、僕は今日も正常を努める。
 いつまでこの状況が続くのか、いつまで生きればいいのか、それを考えると恐ろしい。
 人の隙間に小説を開いた。小説が好きなのか、現実が嫌いなだけなのか、このところわからなくなっていた。学生時代、修学旅行で購入したステンレス製の栞を目印に、昨日の続きを探す。読書をする時間も、気力さえも減ってしまったのに、好きな作家の新刊を追うことだけは続いていて、積ん読は増えるばかりだ。
 今読んでいる作品だって、一年も前に出たミステリ小説だ。この作家の小説は3冊ほど積まれている。本格的なトリックを扱っていながら、登場人物の背景にも気を使っているところが好きだ。猟奇的な殺人事件の合間にも、くすりと笑うことができる。
 文字列の海に若干の安堵を覚えつつ栞を抜くと早速、犯人の手口が暴かれ始める。
 ……そうだ。昨日はその手前で読むのを止めていたんだった。もちろん、今日の僕のためだ。思わず笑ってしまう。
 おはよう。昨日の僕。
 今日も死なない程度にやっていくよ。
 

画像はmotokids様よりお借りしました。

あらゆる時間の自分たちが交差するイメージを受けて、私の文章と重なるかな、と思いました。終わりの見えない感じや光と影(小説でいうと過去と現在)みたいな表現はモノクロだからこそのかっこよさかなと思います。曲線と、手前にぼんやり見切れる手すり(?)が素敵です! 

最後まで読んでいただけて嬉しいです。ありがとうございます!