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【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】27編

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27人の戦国武将の死に様を独白テイストで綴りました。
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記事一覧

戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)②武田信繁

列伝其の二

『武田信繁』
我が命のすべてはお屋形様の為にある。
(1561年)川中島で上杉(謙信)との4回目の合戦となった。我ら武田勢は山本勘助の策をもとにして、挟撃の手筈を進めた。
しかし、上杉勢は濃霧が晴れるやお屋形様の本陣目掛けて突撃をしてきたのだ!
各なる上は我が命をもってお屋形様をお守りせん!
「我こそは武田典厩信繁!我が命欲しくば参れ!」
雑兵が群がるなか、伝令に命じた。
「お屋形様

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【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】27安国寺恵瓊

列伝其の二十七『安国寺恵瓊<アンコクジエケイ>』

(1600年)関ヶ原合戦が行われた。儂のついた西軍が敗れあえなく儂は捕縛された。
 かつて織田信長の凋落を見抜いた儂の慧眼は機能しなくなっていたようだ。
 六条河原まで引き回された三成殿、行長殿そして儂の三人はここで斬首されることとなった。
「何か言い残すことはあるか?」
「吉川広家<キッカワヒロイエ>さえいなければこの地で首を刎ねられしはお主

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【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】26山縣昌景

列伝其の二十六『山縣昌景<ヤマガタマサカゲ>』

(1575年)設楽ヶ原に於いて勝頼様は織田・徳川連合軍との戦に及んだ。三方ヶ原で徳川家康に痛打を与えた武田の精鋭部隊が織田の究極の鉄砲戦術の前に散々に打ち負かされた。
「勝頼様。このままではいたずらに兵を失い将も失いまする。撤退のご決断を。」
 儂は恥を忍んで進言した。が、勝頼様の言葉は余りにも酷いものだった。
「どうした山縣?百戦錬磨のお主で

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【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】25穴山梅雪

列伝其の二十五『穴山梅雪<アナヤマバイセツ>』

 儂は武田家を裏切り織田方へついて生き延びる道を選んだ。勝頼に仕えて共に滅びる気など毛頭なかった。
(1582年)遂に甲斐武田家は名実ともに滅亡した。
 そして同じ年に更なる激震が起こる。自らを第六天魔王とまで称した織田信長が本能寺にて明智光秀に弑逆され命を落としたのである。
 上方から儂は這う這うの体で国元に向けて逃げ出した。しかし、誰かの息を

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【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】24織田信忠

列伝其の二十四『織田信忠<オダノブタダ>』

(1582年)本能寺が急襲されたと報せが入った。明智光秀めが謀反を起こしおったのだ。愚か者めが!急ぎ本能寺に救援に向かう! と息巻いたが多勢に無勢、三度押し返したが耐え切れなくなり二条城に逃げ延びたが、もう選択肢は残されていなかった。わが父・信長の野望は私・信忠の多忙を生むことになっていたであろう。後世なんと言われようがここが死に時なのだろう。覚

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【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】22飯富虎昌

列伝其の二十二『飯富虎昌<オブトラマサ>』

 もはや若(武田義信)とお屋形様(武田信玄)の双方のすれ違いの溝は修復不能なまでに悪化している。
 今川を攻めたいお屋形様と今川から輿入れした正室を持つ若とでは、根本的な部分で相いれないのだ。利を優先するか義を持って生きるか。突き詰めればそこなのだ。
 しかし、とうとう若は謀反の決断をされた、傅役として儂はこの若の為に死なねばならない。
「飯富兵部<

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【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】21小山田信茂

列伝其の二十一『小山田信茂<オヤマダノブシゲ>』

(1582年)儂は勝頼さまを裏切り織田方についた。程なくして天目山・田野に於いて勝頼様・信勝様ら主従が自害・討死された。
 その後、恩賞を与えると織田信忠様より呼び出しを受けた私に待っていたのはろくでもない話であった。
「皆の者、見よ。この者が稀代の裏切りの不忠者じゃ。見苦しい、即刻首を刎ねよ!」


『小山田信茂』刑死

【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】⑳甘利虎泰

列伝其の二十『甘利虎泰<アマリトラヤス>』

(1548年)儂(甘利虎泰)と板垣信方はまだ若いこれからの時代の武田家をお守りすべく捨て石となりて散る覚悟を決めた。
「板垣、これが今生の別れじゃな。」
「なぁに甘利、冥土ですぐ会うではないか。」
「左様じゃな。それではお互い最期の槍働きじゃな。」
 儂は乱戦の中遮二無二槍で敵を突き、払い、叩きながら乱戦に身を投じた。

『甘利虎泰』討死

【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】⑲板垣信方

列伝其の十九『板垣信方<イタガキノブカタ>』

(1548年)お屋形様(武田晴信のちの信玄)は焦っておられる。村上義清風情に何故かように押され武田が守勢に回り敗色濃厚であることがだ。将の器とはいえまだお若いのだ。
 しかし、お屋形様を擁立し信虎さまを追放することに加担したのは他でもない我等だ。
 武田の両識と称された儂も甘利も年を取り過ぎた。
 ここで、お屋形様をお救いして死のう。
「我こそは

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【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】⑱真田信繁

列伝其の十八『真田信繁<サナダノブシゲ>』

(1615年)大坂の冬の戦が終わり夏に入ったこの戦いは余裕を持って生き永らえたい徳川方と豊臣家と共に身果てるまで戦いその中から何かを見出そうとする豊臣方とくっきりと色合いが見えてきていた。 私とて真田の名に恥じぬ戦に憧れてこの地に来たのだ。今日この日は我が武辺の限りを試す絶好の最初で最後の好機ではないか!功名心の無い武将が居ようか?全くいないとは

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【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】⑰長宗我部盛親

列伝其の十七『長宗我部盛親<チョウソカベモリチカ>』

(1615年)大坂城が落城した。名実ともに豊臣は滅びたが、儂には長宗我部家再興こそが悲願である。その日叶うまで死ねぬ。
 儂さえ生きていれば落ち延びさせた者達の旗印に儂はなれるのだ。
 しかし、天は儂を見限ったのだろう。逃亡中に潜伏していた所で探索に見つかり捕縛されてしまった。
 伏見城に連行された儂は将軍秀忠に、
「なにゆえに死を選ばなん

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【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】⑯足利義輝

列伝其の十六『足利義輝<アシカガヨシテル>』

(1565年)松永久秀らの刺客が向かっているのは既に知っていた。我とて足利将軍家にして数々の兵法家らに剣を学びその腕を評価されているのだ。生きおおせるとは到底思えぬが、剣豪として後世に名が刻まれるよな武者ぶりを見せて死のうではないか。
 数多の宝剣を突き立てて並べた我は向かい来る敵を切り捨てては次の剣へ、使い物になら無くなればまた次の剣と散々斬りお

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【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】⑮石田三成

列伝其の十五『石田三成イシダミツナリ>』

(1600年)関ヶ原に我等西軍と、憎き徳川家康との決戦が繰り広げられている。両軍ひしめく中で、戦局を揺るがす大惨事が起きた。小早川秀秋の裏切りである。
「刑部(大谷吉継<オオタニヨシツグ>)すまぬ!」
 程なくして大谷刑部吉継自刃の報せが入った。
 これを契機に西軍は崩れ雲散霧散の体をなして潰走を始めた。その最中に持ち場を守り続けてくれた島左近が討死

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【戦国武将討死列伝(自害・刑死アリ)】⑭柴田勝家

列伝其の十四『柴田勝家<シバタカツイエ>』

(1583年)上様に猿だの禿ネズミだの言われていた『羽柴秀吉<ハシバヒデッヨシ>』に賤ヶ岳における戦いに敗れ北ノ庄城に儂は追い込まれていた。
「お市様、子らを連れて落ち延びてくだされ。」
「なりませぬ。子らは落ち延びさせまするが二度も夫が自害して果てる時に生き永らえるのは御免こうむります!共に黄泉の国へ参りましょう。」
「儂の力が及ばず申し訳なか

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