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閃光(ポラ列から始まる百合③)


演目が終わって照明が明るくなると、それまで別世界のようだった舞台がぐっと近づきやすい場所になる。ポラ券を持ったしおりに続くようにして、わたしも財布をもって立ち上がった。

一枚五百円という手軽さで、踊り子の写真を撮らせてもらえるという仕組みの気前の良さには何度もびっくりしてしまう。しおりが持っているポラ券は十一枚つづりで五千円のもので、すでに残りの枚数が少なくなっている。昔から写真を撮るのが好きだったしおりは、携帯電話が禁じられていた学校にも小さなポラロイドカメラを持ち込んでいた。

ベビードールに身を包んだ踊り子が、デジカメのSDカードを入れ替える。劇場ではおなじみのデジカメだけど、外では使っているひとをほとんど見かけない。

「いまはポラロイドカメラ使わないのにね」

しおりの声に顔を上げる。一瞬かち合った視線をそっと外したしおりが、ほら、と手元のポラ券をこちらに見せた。

「チャンネルだっていまだに『回す』って言うしね」
「スマホのこと携帯って言っちゃうのと似てるかも」

まるできのうも会っていたように、他愛ない雑談はなめらかに進んだ。話したいことはほかにあるはずなのに、踏み込んで傷つくリスクが犯せない。

前に並ぶしおりは、後ろ姿だと学生のころとすっかり変わっているように見えた。ヒールのない靴でもすらりと長い脚はあの頃のままだけれど、ゆるく巻かれた髪も、フリルのついたノースリーブのトップスにチュールスカートという服装も、高校生のころのしおりが選びそうもないものだった。そういうものがよく似合う、甘やかな大人に成長したしおりを見ていると、くたびれたスーツでここにいる自分が恥ずかしくてつい背中を丸めてしまう。

「真帆ちゃん、また猫背になってる」

あの頃、こんなふうにしおりからとがめられることがよくあった。わたしたちは学校で互いの体に触らなかったけれど、こう言うときだけしおりは気安い手つきでわたしの肩をつかみ、ぐっと後ろに開かせた。巻き肩に慣れきっている体は、自分では不自然だと思うほど胸を張らなければ正しい姿勢に戻らない。窮屈なのと気恥ずかしいのとで、やめて、と拒む声がほんの少し尖った。

自分のからだが好きになれなかった。背が低くて胸が平らなのは成長が遅いだけだと思っていたけれど、高校生活も半ばを過ぎればそういう気休めは通用しない。肝心なところは貧相なままなのに、顔や脚といったうれしくないところにはちゃんと肉がついている。思い描いていた「女」のからだが手に入らないことを確信したわたしは、どこかしらけた気持ちになっていた。

そんなわたしのことを、しおりは持ち歩いていたカメラでよく撮った。フラッシュに気づいたわたしが抗議すると「頼んでも断られるだけでしょう」と涼しい顔をした。

重たい鞄を肩にかけるせいですこし傾いた後ろ姿。呼ばれて振り向きかけた横顔。しおりを待っている様子を遠くから撮ったもの。画質が粗くてはっきりと顔が映らないのでほっとするのと同時に、しおりの目には自分が良いものとして映るのだと知れるのは何かが満たされることだった。ひとに見せないことを約束して、わたしはしおりに撮られることを受け入れた。


ちぎったポラ券を二枚差し出して、しおりが踊り子を撮影する。細いリボンを結んだかたちの肩紐、透けた薄紫の布地には、きらきらと光を跳ね返す金の糸で細やかな刺繍があしらわれている。かたちのいい胸の前で結ばれたレースのリボン。踊り子が姿勢を変えるたびに、すべらかなおなかやピアスがなまめかしく覗く。

しおりと話しながら、踊り子はいくつかのポーズをとった。一枚目は座った状態で、二枚目は立ち上がって、腕の角度や表情を微妙に変えながらしおりの求める構図を探ってゆく。二度のフラッシュが、しおりの心が動いた瞬間を知らせるようにそれぞれ瞬いた。

「また楽日にね」

踊り子がしおりに向ける柔らかな声。親し気な様子をひそかに羨んでいると、列の先頭に立ったわたしに向けてまったく同じ声色で「見てくれてありがとう」という言葉が向けられた。分け隔てない態度に感激しているのに、うまく返事ができなくてマスク越しに目だけで笑ってみせる。「一枚お願いします」というのが精いっぱいで、気の利いた言葉が浮かばない。

「どんなポーズがいい?」
「おまかせで」

しどろもどろに伝えると、踊り子は困った様子も見せずに「オッケー」と微笑んで、床に座って足を斜めに流した人魚のようなポーズをつくってくれた。ベビードールの刺繍も、華奢な体躯のラインもはっきりとわかる理想的な絵をすこしも取りこぼしたくなくて、頭からつま先までがちゃんと入るように気を付けて写真を撮った。ほんのすこし傾けたしろい首や細い顎の輪郭を、フラッシュがくっきりと照らしだす。

真帆ちゃんのからだを撮ってみたいの

かつてそう言ったしおりの声が、頭の中に蘇った。

大学受験が近づくにつれて、わたしはあまりものを食べなくなった。課題をこなすのに時間がかかるので夜が遅く、朝は食欲がない。授業に集中できないので昼休みをつぶして復習をするから、自然とお昼ご飯は片手で済ませられるゼリー飲料に頼ることが多くなる。部活を引退してしまうと体を動かす習慣もなくなって、夕方になってもおなかがすいたと感じない。遅くに塾から帰ると夕飯が用意されていたけれど、そのあとにこなさなければならない課題のことを考えると食事をとって眠くなるのが嫌だった。

プレッシャーからの逃避。子どもじみたからだに対するコンプレックス。おとなになったいま振り返ればそういうことなのかもしれないけれど、渦中のわたしは毎日をやり過ごすことにいっぱいいっぱいで、自分のからだに注意を向ける余裕がなかった。腕をあげれば胸のしたに骨が浮く、そういうからだになることで何かからゆるされるような気もしていた。

「真帆ちゃん、ちいさくなっちゃったね」

夏のはじめには指定校推薦がほぼ決まっていたしおりとは、ふたりで会う時間が減っていた。自分だけ進路の決まってしまったしおりは、わたしに遠慮する気持ちもあったのだろう。一歩引いた様子であまり連絡をよこさず、体調を気づかう短いメッセージが、返信のいらない言い回しで時折届くだけだった。

「しおりの背がまた伸びたんじゃないの」

久しぶりに塾の授業がない休日、カフェで顔を合わせたしおりは背中に届くほどの髪を緩く結んでいた。ケーキセットを頼んだしおりの前で、なにも入れないアイスコーヒーの氷を手持無沙汰にからから鳴らす。一口あげる、と何度も言うしおりの、心配そうな顔つきを覚えている。

「真帆ちゃん、ほんとうにあの大学に行きたいんだね」
「それもある」

ちょっと含みのある言い方に、しおりが顔を上げる。フルーツがたっぷりのったケーキのタルト生地がうまく切れないようで、すべったフォークが皿とぶつかる音がする。しおりにはめずらしいほど不器用な手つきを見ていると、久しぶりに気が抜けてつい笑ってしまった。

「いつか、ほかの人にも知られるかもしれないでしょ。……しおりと、わたしのこと」
「うん……」
「そうなったときにね、わたしの受験がうまくいってたら、しおりのおかげって言えるかなって。そうしたら、堂々としやすくなるかなって」

言いながら気恥ずかしくなって、アイスコーヒーの細いストローを口に含んだ。ひとりだけ先走って将来のことを考えているようで、もう引っ込みのつかない言葉にどういう反応が返ってくるのかと急に不安が押し寄せる。

ほんとうは、すこしちがうことを考えていた。いつかしおりとのことが周囲に露見したときに、わたしの受験が失敗していたら。しおりとの関係をわるいもののように見做されるのは、想像のなかでさえも耐え難いことだった。それがしおりに対する思いやりなのか、わたし自身の見栄や自尊心の問題なのかは、あまり考えないようにしていた。

目を合わせられずにいると、不意にまぶしい光を浴びた。同時に響いたシャッター音で、しおりがわたしを撮ったのだとわかった。

「ちょっと、お店の中」

奥まっていてほかに客のいない席ではあるけれど、古いポラロイドカメラはそれなりの音が出る。お店の人にとがめられるのが嫌で先回りして注意を促すと、「ごめん。でも、どうしても撮っておきたくて」とちいさな声が返ってきた。しおりは少し泣きそうな顔をしていた。

「真帆ちゃん、いつものところに行かない?」
「いまから?」
「真帆ちゃんのからだを撮ってみたいの」

お願い、と続けたしおりの声がかすかに震えていて、わたしは何も言えなくなった。

休日のショッピングモールはどこも混んでいるけれど、フロアを選べばあまりひとの来ないトイレは意外とある。パウダールームでお化粧を直すひとがちょうどいなくなるタイミングを見計らって、ふたりでひとつの個室へと忍び込んだ。

「一枚だけね、顔は撮らないで」
「わかってる」

断ることができずに向かい合っているものの、いざしおりの前に立つと無視しがたい羞恥心がこみ上げる。ブラウスのボタンに手を掛けたまま動けないわたしの手をそっとほどいて、しおりがゆっくりとボタンを外してゆく。外の熱気で蒸れた肌にすずしい空気がふれて、状況と不似合いにからだからはほっと力が抜けた。そのまま緊張を逃がしていくように、細く細く息を吐く。

「痩せちゃったね」

わたしの上半身をすっかり裸にしてしまうと、しおりは声をひそめてつぶやいた。うすい胸を生ぬるい指がなぞるとき、声が漏れそうになって歯を食いしばる。恥ずかしさと緊張に耐えられなくて、はやく、と急かす声が掠れてしまう。

しおりがポラロイドカメラを構える。顔は写さないことになっているものの、シャッターが切られる瞬間にどんな表情をしていれば適切なのかがわからない。一度目を閉じたけれど、視界が遮られると余計にカメラを意識してしまう。ひとが来るのではないかと気が気ではないのに、しおりはなかなかシャッターを切らなかった。

すん、と鼻をすする声がして、一度カメラをおろしたしおりはトイレットペーパーを巻き取って洟をかんだ。目と鼻がわずかに赤くなっている。

「どうしたの」
「わかんない」

照れくさいのか、何かごまかしているのか、あいまいな表情で微笑んだしおりは、カメラを構えなおすのとほぼ同時にシャッターを切った。瞬いたフラッシュ。しおりが残したいと願う瞬間の訪れを知らせてくれるその光は、しばらく目の奥に焼き付いた。誰かに知られたのではないかと気が気ではなかったけれどトイレにはひとの気配がないままで、ポラロイドカメラからはゆっくりと写真が吐き出された。

写真が浮かび上がるのを待たずに、女子トイレを出てひとの流れに紛れた。話し声や館内放送で賑わうフロアに出ると、しおりが「ラブホテルってどんなところかなぁ」と言い出した。

「真帆ちゃんに、もっとちゃんと触りたい」
「でも、未成年でそういうところに入ってなにか言われない? 女同士だし……」

わたしは世間知らずで、そういう場所に行くのは大人の男女だけだと頭から決めつけていた。自分たちのうしろめたい欲望が、将来をゆがめてしまうのをひどくおそれてもいた。

「じゃあ、卒業したら。それで、私が髪を切って男みたいにすればいいんじゃない? そうしたら、誰にも何も言われないよ」

さっき見せた泣き顔がうそだったみたいに、しおりは明るい表情でそう言った。

「アルバイトもしてさ、お金が溜まったらルームシェアしようよ」

しおりが笑うと、矯正した歯並びがよく見えた。まるでそうなることが決まっているみたいに、確信を持った口調でしおりが話す未来予想図をきいていると、叶えられないはずがない、という強い気持ちが湧いてきた。通りかかったインテリアショップで、いずれ暮らすはずのふたりの部屋を想像してああでもないこうでもないと笑い合った。たくさん話すとおなかがすいて、フードコートでラーメンと石焼ビビンバを分け合った。夕方から塾の自習室に向かうわたしのことを、しおりはちゃんと送り届けてくれた。あの日撮った写真のことを、そういえばわたしは一度も見ていない。

約束。わたしたちはこれまで、いったいいくつのそれを反故にしてきたのだろう。可愛い約束たち。それらはいったい、どの瞬間までさかのぼれば叶えられる余地が残っていたのだろう。あの日のわたしたちは、たしかに無敵だったはずなのに。


前の回で撮ったポラを回収したらしく、しおりは手元に何枚かの写真を持っていた。わたしを撮ってくれた写真とは違い、デジカメで撮ったそれらは画質がよくてつやつやと光沢を放っている。見せてほしいと頼むと、気さくな様子ですべて渡してくれた。

指紋をつけないように注意しながら一枚ずつめくっていく。満面の笑顔。凛々しい横顔。柔らかな微笑み。どの写真も、それぞれの踊り子や演目のイメージに合った表情が引き出されている。顔だけではなく、首筋や背中、胸やおしり、脚や指のかたちなど、踊り子のからだの魅力的なパーツを強調するような構図が意識されていて、どの写真を見ても、しおりがその踊り子のどこに関心を寄せているのかがはっきりとわかった。

回収の客がほかにいないことを確かめた踊り子が、オープンショーの前に一度舞台の袖へとはけてゆく。そのタイミングで写真を返すと、しおりは『星の王子さま』の真ん中あたりにそれらを挟んだ。ネイルを施された指先が、劇場の明かりを受けてきらきら光る。

再び舞台が暗転する瞬間、しおりの声がした気がしてそちらを向いた。何? と聞き返すと、周りを気づかってかわたしの耳元までしおりが口元を近づけた。

「写真、ちゃんと処分したから。……ごめんね」

 まぶしい舞台の真ん中で、笑顔の踊り子がきれいなお辞儀をした。(続く)

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