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ひかりを孕む

クリニックに行く朝、私は化粧をしない。元々朝が苦手で、だからこそ昼に出社する仕事に就いたのだ。なるべく朝は起きたくない。けれど、予約を受け付けない方針のクリニックは、診察時間前に並ばなくては待ち時間がかなり長くなる。電車の中は日が差していて暖かい。OL。高校生。一目でそうとわかる格好の彼女たちと比べると、季節外れのマスクで気休め程度に素顔を隠した私はとてもみじめに思える。着ているワンピースも、数年前に買ったもの。服装が年相応かどうかということに、もしかして疎くなっているかもしれない自分に薄ら寒い思いがする。適当にまとめた髪。シュシュは何歳まで許されるのだろう。

途中駅には私の母校がある。私は高校受験で入った学校だけれど、付属の中学部を併設しているので電車の中は見馴れた制服の子たちが多い。制服はワンピース型で、今見れば清楚で悪くないのに、在学中はスカートを折って短くできないのが不満だった。中学部と高校部はリボンが違うだけなので、まぶしいほどの白色が電車内にあふれている。
年が若いことのエネルギーこそ認めるけれど、彼らを無条件に美しいとは思わない。まだ秩序を知らない感情を押し込んだ体は、ホルモンのバランスが狂ったいびつなかたち。少し意地悪く見つめてしまうのは、私の仕事も関係しているのかもしれない。

それでも、時には目を引く存在もいる。特別に美しい顔立ちというわけでなくても、利発そうだったり清潔そうだったり、どこか年に不似合いな大人らしさを備えた子ども。男子のこともあるが、たいていは女子だ。そういう子は一人で乗っている。不思議なのは、一人でいるときにはとても完成されて見えた子が、途中で乗り込んできた友達と合流した途端、他の子と同じアンバランスな何かに変わってしまうことだ。若い子たちは、一緒にいる相手によって本当に顔が変わってしまう。

今日は一人いた。ドアのそばに立って、外を見るともなくぼんやりとたたずんでいる。真っ黒で量の多い長い髪は、癖っ毛らしく豊かに波打っている。鼻筋のきれいな横顔。癖っ毛の子は睫毛が長くて良い、と直毛の私はうらやましく思う。私がかつて着たのと同じ制服。青いリボンは高校部のものだ。最近では、あの年ごろの女の子が「ぼんやりとたたずんでいる」こと自体奇跡のような気がしてしまう。スマホを見るでもなく、テキストを開くでもなく、なにもしないで立っていられる子のなんと少ないことか。

もしも子どもを持ったら――私は想像する――もしも子どもを持ったら、電車で何もせずにいられる子に育てたい。そう考えながらほぼ無意識に、Googleで《子ども スマホ いつから》なんて検索してしまっているのだから、自分で自分に呆れてしまう。いつの間にか電車の中は混み始め、座っている私からは彼女の姿が見えなくなってしまう。高校のある駅まであと少し。その間にきっと、友達に出会うなりスマホを取り出すなりしてあの子も普通の女の子に変わってしまうのだろう。

やがて高校の最寄り駅に着き、白い制服たちがドアへと詰めかけて一気に吐き出されてゆく。人波に押し退けられる形になったのか、ドアのそばにいた彼女は最後にホームへと降り立った。僅かにふらつく。

(あ、)

私は弾かれるように立ち上がり、閉まりかけたドアから外へと飛び出す。半分ほど閉じていたホームドアが大げさな音を立てて一度開き、注意を促すアナウンスが遠くに聞こえる。

「あの、スカート」

少し躊躇したものの、彼女の肩をそっと叩いた。ふりむいた彼女の顔を、半分ほど隠す長い髪。それを耳にかける白い指が、人差し指、中指、薬指と順に眉の上を滑って、小指が通り過ぎるころ黒目がちな目がまっすぐに私をとらえる。

「スカート、切られてる」

彼女のスカートは、お尻のすこし下あたりに大きく切れ目を入れられていた。遠目には目立たないものの、歩くと切れ目が開いて肌の色が覗いてしまう。彼女は平坦な声で、さわってるだけかと思ったのに、と呟いた。

「大丈夫? 駅員さんのところ行こうか」
「大丈夫です」

彼女は羽織っていたカーディガンを脱いで腰に巻き付けた。腕と腕を結ぶ、しゅ、という衣擦れの音がする。動揺しない彼女と反対に、私ばかり落ち着かない気持ちになっておろおろしてしまう。

「あの、よかったら私の制服あげよか。私、卒業生やねん。捨てるのも勿体なくてとってあって」

つい口走った言葉は、我ながら滑稽だったと思う。それでも、眉一つ動かさない冷静な声で言われた「お気遣いなく」はさすがに堪えた。恥ずかしくなって、それでも引っ込みがつかなくて、目的地ではない駅で降りてしまった私は途方にくれる。

「本当に、駅員さんに言わんでいいの?」
「いいんです」

遠ざかる後ろ姿が、夏少し前の朝の光に溶けてゆく。
   

診察開始時間から三十分と経っていなかったのに、受付が少し遅れただけでいつもより一時間も多く待たされた。あまりに長い待ち時間に頭がぼんやりとして、名前を呼ばれたときにすぐに返事ができなかった。仕事では旧姓で通していたので、今の名字にはまだ慣れない。クリニックでの流れは決まっている。問診と内診。数分で済んでしまう、淡々とした作業。

子どもが欲しいとは学生の頃から思っていた。知識がないわけではなかったから、望めばすぐに出来ると高をくくっていたつもりはない。それでも、期待と落胆を繰り返すうちに気持ちがさきにやられた。無駄にしてしまった検査薬の、残酷な白さ。

本格的な治療をするには覚悟も資金も足りなくて、いまはタイミングの指導を受けるだけにとどめている。タイミング、なんて、うまく言い換えたものだと思う。ありていに言えば私はセックスの、それも膣内射精の指示を受けるためにわざわざ病院に通っているのだ。必要なこと、仕方ないことと割り切ろうとしても、時折ふと言いようのない感覚におそわれる。知らない誰かにはだかの胸をつかまれているような、いやな感覚。

「今日、明日、できれば明後日まで、可能な限りタイミング取ってくださいね」
「はい」
「頑張って」

彼なりの気遣いなのか、老齢の医師は目を合わせない。
クリニックに行った日は、仕事に行くのが億劫になる。昼過ぎから夜までの仕事なので、半休をとると出勤するころには日が暮れかけている。帰り道を急ぐ人たちに逆らって、私の今日がやっと始まる。今日は一年生が二コマ。何年も使っているテキストだから、話すべき内容は諳んじてしまった。

「先生?」

もう少しで職場に着くというところで、自分に向けられた声とぶつかる。わあ、律(りっ)ちゃんや! と弾んだ声に顔を上げて初めて、私は自分がかなりうつむいていたと知る。今朝のあの子と同じ、真っ白な制服。佐藤、という彼女の名前が口をついて出る。

「嬉しい。律ちゃんどうしてるかなって、思ってたんです」
佐藤ひろこは屈託なく笑う。せいぜい一年と少し会わなかったというだけで、大げさなほど再会を喜ぶ彼女のやわらかく下がる目尻にはまだ化粧っけがない。それなのに、短い髪から覗く頬がほっそりとして見えて、いつのまにか大人びたように見える。

「だいぶ髪切ってんな」
「ふふ、似合います? 最近切ってん」
「失恋でもしたん」

からかうつもりで言ったのに、佐藤の表情が一瞬固まる。失敗したかな、と胸の内が冷たくなった。佐藤はすぐに弱く笑った。

「いややぁ、そんなんちがいます」
「そうなん」

こんなとき、彼女たちの年ごろのほうがよっぽど人間ができていると思う。私みたいな大人の失敗を、やさしく許してくれる。

「ひろちゃん」

私の後ろから声がして振り向く。長い髪、腰に巻いたカーディガン。佐藤と同じ制服の少女を見て、私は目を見開いた。そこにいたのは、今朝電車でスカートを切られたあの子だった。私の服装が朝と違うせいか、彼女は気が付いた風もなく佐藤にまっすぐ視線を向けている。

「あ、ユキちゃん。この人な、中学のときの先生やねん」
「学校の?」

少女は、形だけ私に軽く頭を下げる。

「ううん、塾。そこの。律ちゃん、うちな、いまあっちの予備校通いはじめてん」

佐藤が指したのは、職場と道路を挟んで向かいにある大手の大学受験塾だった。
高校受験に一喜一憂していた佐藤が、もう大学受験。当たり前すぎるくらい当たり前に過ぎていく時間の流れと、さほど変化のない自分の毎日を比べて言葉に詰まる。同じ高校を出た私は、二年生の頃何をしていたっけ。そんな引け目をつい感じそうになってしまう。

「頑張ってるんやな」

顔いっぱいに笑顔を作ってそう言うと、佐藤はまたふふ、と声に出して笑った。

「じゃあ、授業始まるから」
「またこっちにも顔出して、後輩の応援に来たってな」

お決まりの台詞で会話を終わらせ、横断歩道を渡る。渡り切ってから振り向くと、佐藤の頭越しにユキちゃんと目が合った。
   

佐藤ひろこは扱いやすい生徒だった。中学生の女子は、賢ければ賢いほど意地の悪いところがある。取り繕うのがうまく、抜け目がない子が多い。そういう子たちにたくさんの高校を受けて貰わないと実績が伸びない小さな塾なので、彼女たちの機嫌を損ねないようにするのは骨が折れた。男性講師と私とで、彼女たちの態度が違うことなんて珍しくない。それは彼女たちの母親だって同じなのだから、人間はいくつになっても大体変わらないのだろうと思う。

その点、佐藤は成績に似合わず、良い意味で幼かった。裏表がなく、感情が表情に出やすい。男性講師よりも私の方が話しやすいと言って、ささいなことまでしょちゅう「相談」をしたがった。志望校や勉強方法だけでなく、髪型や服装のことまで話したがるのは少し閉口したけれど、いかにも年ごろの少女という感じで可愛らしかった。妹のよう、と思ったことはないけれど、それと近い感覚だったのだと思う。

だからユキちゃんから、佐藤の色恋沙汰について聞かされたときはすこし面食らった。

「ひろちゃん、失恋したんです」
「うちのせいなんです、ひろちゃんは知らんけど」

ユキちゃんとは、クリニックに行く日の電車で何度か顔を合わせた。初めは遠くから会釈を交わす程度だったのが、時折言葉を交わすようになって、本格的な夏が来る頃には会えば必ずお喋りをするくらいになった。登校時間と重なる電車は、相変わらず白い制服であふれている。でもその中に、ユキちゃんに話しかけてくる子は誰もいない。

この日、ユキちゃんはしばらく黙り込んでいた。いつもなら聞きたがる、佐藤の中学時代の思い出話――数学が苦手で半べそをかいたこと、模試が近づくとおなかを壊したこと――を話しても返事に元気がない。何かあったん、と尋ねても、あいまいに首を傾けるだけ。なんでもない、とごまかしもしないところに、ほんの少し苛立つ。

この後、私はクリニックでフーナーテストを受けることになっていた。性交したあと子宮頚管に残った粘液を調べて、精子の数や運動率を見てもらう日。機嫌よくしている方が難しいと、胸の内でため息をつく。

学校の最寄り駅が近づき、生徒たちがドアに集まり始めてもユキちゃんは座ったままじっと動かない。何度目かの「何かあったん」に、やっとユキちゃんが口を開いたのは同じ制服がみんな電車を降りて行った後だった。ひろちゃん、失恋したんです。うちのせいなんです、ひろちゃんは知らんけど。

その相手が先生だということに驚いたわけではなくて、ただ、佐藤が人を好きになったということが私をほんの少し打ちのめした。自分がそういう舞台から押し出されて、うんと年を取ってしまったように感じてしまう。なぜか。

その感覚に比べれば、ユキちゃんから聞いた佐藤の想い人はひどくありきたりな人物像に聞こえた。生徒を親し気に名前で呼ぶ、女子校の若い男性教師。

「下の名前で呼ぶのんはどうかと思うけど、多少甘やかすのなんてまだ普通なんちゃう? 先生なんて、甘やかすのんが仕事みたいなもんやし」
「でも、あのひとはひろちゃんにキスした」

佐藤と教師が交わしたそれと、ユキちゃんの密告。彼女たちにとって、唇を合わせるだけのことがとても大きな意味を持っているということに、私は言いようのない眩しさを感じる。クリニックに通ううちに、私は自分の身体に詳しくなったけれど、知れば知るほど体はモノになっていった。どこかにきっと不具合のある、不完全で不適格な。
やっと話し終えたユキちゃんは、うちのせい、と繰り返してスカートを握りしめた。

「私もあったわ、先生に憧れたこと。せやけど、佐藤は振り向かせたんやなぁ、すごいわ」

冗談にして済ませようとした私を、ユキちゃんは睨みつけた。

「気色悪いわ、そんなん。ひろちゃんが好きになるんは仕方ないかもしれへんけど、あのひとは先生のくせに」

ユキちゃんの声色が傷ついているので少し胸が痛む。こんなにも聡明に見えるユキちゃんでさえ、先生という生き物を正しい大人だと思い込んでいる。

「……せやな。ユキちゃんがしたことは間違ってへんと思うよ」

落ち込むユキちゃんの横顔に見とれていることを隠しながら、私の言葉はどんどん正論になっていく。

「大人やったら、佐藤の気持ちを受け入れるべきではないわ。もしほんまに佐藤のこと好きやったとしても、せめて卒業までは待つんがけじめやな」
ユキちゃんは間違ってへん。励ますつもりでそう繰り返すと、ユキちゃんはつまらなそうに天を仰いだ。白い首。青いリボンの下で、胸の線がゆっくりと上下する。

「律ちゃんて、正解しか言わへんねんな」

うち、叱ってほしいのに。そう力なく呟く。

「ひろちゃんが夢に出てきて泣くねん。先生、先生てあのひとのこと呼んで泣くねん。うち、ごめんなぁ、ごめんなぁって泣きながら目覚める……それでも次の日会(お)うたらひろちゃん笑ってるから、よう謝られへん」
「ユキちゃんは、佐藤が好きなんやね」

友達としてじゃなく。そう言い添えると、ユキちゃんはそっと息を吐きだした。そう、と小さな声で認める。

「わかるよ、女子校ではよくあるし。私のころもそういう子はたくさんおって」
「一緒にせんとってください。うち、ひろちゃんを男の代わりにしてるんとちがう」
「……ユキちゃんも、いつか男の人を好きになるよ」
「私みたいに、って?」

私の左薬指に注がれるユキちゃんの視線が厳しい。そういうつもりちゃうけど、という私の声は、本心のはずなのにどこか言い訳みたいに響いてしまう。

「古典ではな、『夢の通い路』言うて、夢に出てくるのは相手が自分のこと想ってる証拠やねん。今の感覚やったら、自分の執着の証拠みたいに思うけど、昔はちゃうねんな」
「……」
「佐藤もユキちゃんのこと、大事に思ってるんとちゃうかな」

クリニックの最寄り駅が近づく。このまま二人で乗り過ごし続けても仕方がないので、私は席を立つことにする。ちゃんと学校行きや、とまた「正解」を言ったのが気に食わないのか、ユキちゃんは表情をかたくしたままじっと動かない。

「律ちゃん、ここに用事あるん」
「そうよ」
「学校の駅と違うかったんや。前はあそこで降りたのに」
「気づいてたん?」
ユキちゃんがスカートを切られたあの日声をかけたのが私だということに、気づいていないとばかり思っていた。
「ここに何しに来てるん」
「病院よ」
「何の?」

ユキちゃんの追及はやまない。佐藤にしか興味を示さない子だと思っていたので、ほんの少したじろぐ。うまい嘘も思いつかなくて、不妊治療、と素直に答えてしまう。

「きっとユキちゃんにはまだ遠い話やな」
「そうかな。うち、子どもできへんかもしらんし」
「なんで?」
「誰にも言うてないけど、うち、子どもおろしたことあるねん」
 

まもなく――、――、
 

電車のアナウンスが駅への到着が近いことを知らせ、窓の向こうで景色の流れが速度を落としていく。ユキちゃんは私と目を合わせずに、足許の一点に視線を落としたまま動かない。かたくなな視線とは裏腹に、小さな唇がゆっくりとほほ笑む。

「ひろちゃんのこと好きなうちは妊娠したのに、男の人と結婚した律ちゃんは妊娠せえへんのやね」
「……佐藤が」

そのこと知ったら、どう思うやろね。そう言ってやりたかったのに、大人としての意地が私の口からこぼれそうになる暴力をねじ伏せる。言葉が宙ぶらりんになって、少しでも気を抜いたら泣いてしまいそう。泣きたくない。だから、何か言わなくちゃいけない。
電車がゆっくりとホームに滑り込む。顔を上げたユキちゃんの目は、煽るように私を睨みつけて逸らさない。

「佐藤が、……スカート切られてたら、あの子は泣くんやろな」

初めて会った日のユキちゃんを思い出しながら、私はそう呟いていた。あの日ユキちゃんは、見知らぬ誰かから向けられた暗い欲求に全く動じていなかった。それは、もう色んなことを知りすぎていたからなのだろうか。

ユキちゃんは一瞬表情を失ったあと「そうなったら、うちが犯人殺すわ」と吐き捨てるように言った。ひどいことばかり喚き散らしたいのをやっとのことで堪えて、私は一人で電車を降りる。意図的に傷つけられたことの衝撃で、暑いのに膝のふるえが止まらない。
   

高校が夏休みの間、あたりまえだけどユキちゃんは電車にいなかった。仕事は夏期講習に入り、連日数時間ぶっ通しの授業を続けている。短い休憩で外に出た時に、向かい側の大学受験塾を見上げてみるけれど、たくさんある窓のどの内側にユキちゃんと佐藤がいるのかはわからない。

クリニックの指導では三日後が排卵日らしい。そろそろタイミングをとっておかないとこの周期は期待ができないけれど、なかなかその気になれずにいる。もしも子どもができたとして、生まれてくる子が男でも女でも、それぞれの苦しみがあるだろう。いくつになっても。そんなふうに考えると、私は子どもを欲しがることがなんだかこわい。
   

新学期になって、電車の中にまたたくさんの高校生たちが戻ってきた。それでも、ユキちゃんを電車で見かけることはなかった。通学時間をずらしたのだろう。安堵と落胆が同時にやってきて、私は座席に深く座りなおす。
ユキちゃんのいない電車には、いつもより大きな荷物を持った高校生がひしめいている。もうすぐ文化祭の時期だから、きっと準備に忙しいのだろう。カバンから突き出たボール紙、中途半端に裾を上げたジャージ。彼女たちの内側にはすでに、特別な機能が備わっている。

内診台でもつい、ユキちゃんのことを考えてしまう。ユキちゃんもこんなふうに検査を受けたのだろうか。足をひらいて、器具を挿入して、自分の腰から下をまるで別のモノを見るみたいな目で眺めたのだろうか。

「少し、卵巣が腫れとるな」

あまりストレス溜めんようにね。老医師は当たり障りのないことを言う。
職場に向かう電車の中で、知った顔に目が留まった。佐藤だ。ユキちゃんではない、小柄な女の子と一緒にいるものの、話しているのは友達の方ばかりで、不自然でない程度に相槌を打ちながらどこか心ここにあらずの様子でいる。私と同じ駅で佐藤だけが下りたのを確かめてから、小走りで近づいてその肩を叩いた。

「こんにちは」
「あ、律ちゃん」
「これから塾?」
「ううん、図書館。塾はちょっと、休んでるねん」
「そうなん」

それ以上の質問を控えたものの、塾に行かないのはユキちゃんと顔を合わせづらい理由があるのかもしれないと、つい勘ぐってしまう。

「女子高生やもん。いろいろあるよな。もうすぐ文化祭やろ? 準備は忙しい?」
「うちは特に、何もやらへんから」
「そう」

会話を続けられなくて、それじゃあ、と話を切り上げかけた時、佐藤の視線が私の左手に注がれているのに気が付く。
結婚して、幸せ? そんなことを聞かれるんじゃないかと少し身構えた。けれど、後に続いたのは思いがけない質問だった。

「律ちゃん、漱石の小説、すき?」
「え? うん、好きやなぁ。やっぱり『こころ』がええわ。ちょうど佐藤と同じ年くらいのときに、教科書で読んでん」
「うちもこないだ授業でやったんよ、『こころ』。律ちゃんはどの文がすき?」
「そうやなあ……迷うけどやっぱり」

向上心のないやつはばかだ。

佐藤と私の声が重なり、目を見合わせて笑った。

「教科書に載ってるんは第三部やもんな。第一部の『先生と私』もええで。勉強の息抜きに読んでみ」
「恋は罪悪、ですよね。もう読んだんです。『こころ』も、それから『三四郎』も読みました」
「『三四郎』か。読んだのがだいぶ前やからうろ覚えやけど……」
「我はわが科を知る。わが罪は常にわが前にあり」
「……美禰子やな」

佐藤が引用してみせる言葉のひとつひとつが、ユキちゃんから聞いた話を思い起こさせる。小説と自分を重ねて許されるのも、若くて愛らしい女の子の特権かもしれない。佐藤が少し傾げた首に、目立つほくろがひとつ。ユキちゃんはこのほくろを見て、たまらない気持ちになるのだろうか。

「迷える子羊(ストレイ・シープ)ちゃん、文学は女の子を幸せにはしてくれへんよ」

からかうと佐藤はくしゃりと笑った。それじゃあ、と頭を下げて、塾とは反対の図書館の方へと歩き出す。佐藤の声が耳の中に残っていた。
恋は罪悪。その後に、なんと続いたのだったか。
   

「ユキちゃん、大丈夫?」

ユキちゃんの髪がなびくから、風がとても強いとわかる。背景はぼんやりと明るくて、足元に白線。どこかの路線の終着駅かもしれない、と思った。ユキちゃんはいつもの制服姿で、初めて会った日のようにカーディガンの腕を腰に巻いている。また誰かにやられたん? と近づこうとしてもうまく身体が動かなくて、きっと夢なんだろうなとぼんやり悟った。

ベンチに座るユキちゃんはいつもより白い顔をしている。ゆっくりと立ち上がり、カーディガンを腰から外す。裾が不自然なかたちにたわみ、後ろ側が切られてしまったあの日のそれと同じだとわかる。傷ついた制服。それは、まるでユキちゃんそのものみたいに見える。

ユキちゃんの手が、蝶結びになった細いリボンを引く。首元が緩み、襟の間に細い鎖骨が覗く。ベルトを抜き取る。それまできちんと体に沿っていた制服が、すとんとしたただの白いワンピースに変わってしまう。脇の下にある短いチャックを下ろし、羽化するようにそれを脱ぎ捨てる。ユキちゃんのからだは、柔らかい光をくるんだみたいにすべてが白い。長い髪が、胸の稜線に沿ってたっぷりと波打つ。律ちゃん、と、私を呼ぶユキちゃんの声が耳に絡みつく。

律ちゃんの制服、もらいに行ってもええかなぁ。

「律子」

真っ白い夢から目を覚ますと辺りは真っ暗で、私を呼んだのはユキちゃんではなくて夫だった。

「ごめん、寝てしもてた」
「いいよ、疲れてるんやろ」

精一杯の優しい声。それでも、彼が気分を害していることはすぐにわかった。怒っているのではなくて、傷ついているのだということも。
ベッドの下に落ちていた下着を拾い上げて、夫は浴室へと階段を下りていく。彼を傷つけてしまったことよりも、出すところまでできたかどうかを気にしてしまう私がいる。
   

本物のユキちゃんと久しぶりに会ったのは、九月も終わりかけの午後だった。夏と呼べる時期は過ぎたのに、去り損ねた熱があちこちにわだかまっている。

母校ではこの頃に文化祭がある。ユキちゃんは早々と学校を引けてきたらしく、クリニック帰りの私と電車で鉢合わせた。夢で見たのと同じ制服姿。だけど、切れ目はどこにも見当たらない。

「律ちゃんの制服、もらいに行ってもええかなぁ」

そう言われて、思わず言葉に詰まってしまう。
ユキちゃんは家に上がると、不躾なほどじろじろとあちこちを眺めた。玄関に出たままの大きな靴を。飾ってある写真を。洗面所を使うとき気を使って新しいタオルを出したのに、ユキちゃんは持っていたハンカチで自分の手を拭った。

「制服探してくるわ。ちょっと待っとってな」

私の家は夫にも私にも小さな個室がある。それぞれの部屋にベッドが置いてあって、眠るときは別々に眠る。生活のリズムが違うのだし、それでセックスがなくなるわけでもないのだから問題ないと思っているのだけれど、クリニックの老医師は嫌な顔をした。

「なんで旦那さんと一緒に寝ないの?」

クローゼットを掻き回す私の後ろから、ユキちゃんが老医師と同じことを言う。待っててって言うたのに、と舌打ちでもしたい気持ちになる。散らかっているわけではないけれど、人を招きたいと思えるほど片付いているわけでもない。足元にある今朝脱いだパジャマを、クローゼットに押し込みながら振り返る。

「そんなん勝手やろ。制服、すぐ用意するからもうちょっと待って」
「一緒に寝てへんから、子どもできへんのちゃう」

今日のユキちゃんは機嫌が悪いのだと、薄々勘づいていたことをはっきりと確信した。それで? 情緒不安定なお子様の面倒を見てやるほど、私の方にも気持ちの余裕がない。

「ユキちゃん、私にえらい意地悪言うけどそれは甘えやわ」
「……甘やかすんは先生の仕事て、律ちゃんが前言うとった」
「私はユキちゃんの先生と違う。甘やかす義理ないわ」

わざと強く、クローゼットの扉を閉める。でも、とユキちゃんの声が小さくなる。

「でも、うちのこと好きでしょう。夢で律ちゃんが出てきてん。夢に出るのは相手が想ってくれてる証拠やって、律ちゃん言うてくれた。ひろちゃんは最近いっこも夢に出てけえへん。なんでかわかる?」

ひろちゃん、あのひとのところ行ったんよ。ユキちゃんは消え入りそうな声で呟いて顔を覆った。

「うまく眠れんくなって、寝てるんか起きてるんかわからん、うとうとして短い夢見たとき……律ちゃんが出てきた」
「どんな夢?」
「……」
「言って」

同じ夢を見たかもしれないなんて、期待をしたつもりはない。ただ知りたかった。ユキちゃんの求めている私の姿。

「律ちゃんごめん。こないだ言うたこと、嘘やねん」

話を逸らそうとしているのだとわかった。それでも私の胸は早鐘を打つ。嘘?

「うち、子どもおろしたことなんかない。男と付き合ったことないもん」
「そう……」
「ごめん。さっきも、嫌なこと言うた。」

ごめん。ごめん。ユキちゃんはうわごとのように繰り返す。佐藤に言えないぶんを埋め合わせるみたいに。

「もう、ええよ。ほら、これ制服」

クリーニングのビニール袋につつまれたままのそれをハンガーごとユキちゃんに差し出す。

「サイズ合うかわからんけど」

私がそう言い終わるか終わらないかのうちに、ユキちゃんは制服のリボンに手を掛けた。次にベルトに。脇の下にあるちいさなチャックに。

「着てみやなわからへん」

短いソックス。かたちのいいふくらはぎ。膝を覆っていたスカートがゆっくりと持ち上がり、おなかから下がむき出しになる。藍色の下着が小ぶりなせいか、腿がしっかりとして見える。生々しい丸みは、肉付きの足りない私よりもよっぽど女を感じさせた。もっと、吹けば飛ぶような華奢な子かと思った。そう頭をよぎったけれど、同時に、おなじだ、とも感じていた。目の前にあるのは、確かに夢で見たのとおなじ身体だと。

腿と比べると意外なほど平坦なおなか。その上には、ちょっと驚くくらいの豊かさを抱えていた。下に履いているのと揃いの藍色に、白い糸であしらわれた刺繍。裸に近いのはユキちゃんの方なのに、服を着ている私の方が不思議な羞恥に苛まれてしまう。

「律ちゃん、着せて」

ベッドに腰かけたユキちゃんが、少し顎を上げて言う。有るか無きかになってしまったプライドを、私を使って慰めようとしているユキちゃん。かわいそうに、と思わず言ってしまいそうになる。私はいま、かわいそうなユキちゃんを喜んでいる。

「手上げて」

制服を覆うビニールを破って、頭からかぶせる。大人の身体をもっているくせに、襟口から頭を出したユキちゃんは額がむき出しになって子どもみたいだ。手を引いて立たせ、人形を着せ替えるようにユキちゃんの身体に制服を沿わせていく。

「ここ閉まらんな」

途中までしか上がらないチャックの向こう側に、藍色の下着が覗いている。肩のところも少しきついだろう。またしても自分の貧弱さを見せつけられるようで、私はちょっと傷ついた。

ユキちゃんはお構いなしに、自分で強引にチャックを引き上げた。リボンを結び直してベルトを通すと、やや窮屈そうには見えるものの着られないほどではなさそうだ。

「カーディガン着とったらいけるかな。まあ、予備にでも使って」
「そうする」

部屋の姿見に自分を映しながら、ユキちゃんはどこか気の抜けた相槌を打った。

「律ちゃん、キス、してみてくれへん?」
「は?」
「うち、あのひとがひろちゃんにキスしたんが許されへんかった。先生のくせに、ひろちゃんに汚いことしたって思った。だから罰した。でも、ほんまは違うんやろ。汚いことと違(ちゃ)うくて、せやからひろちゃんは忘れられへんて言うんやろ」

知りたいねん。そう絞り出すように呟きながら、ユキちゃんははらはらと涙を落した。

口づけることもできただろう。そうしたい、という気持ちがないわけではなかった。恋慕や性欲とは離れたところの、単純に知りたい、という好奇心のようなもの。きれいなかたちをした女の子に、触れてみたらどんな気持ちがするだろう?

ユキちゃんがきっと、佐藤と元通り話せる自分になるために望んでいることを、利用するのは簡単だった。それでも。

「やめとこう」
「なんで? 律ちゃんはうちの先生と違うんやろ」

引っ込みがつかないのか、ユキちゃんがまっすぐにこちらを見つめる。あの日電車で見せたのと同じ、睨みつける視線。それなのに、膝を細かく震わせている。

恥ずかしいのだろう。寂しいのだろう。触れてほしいユキちゃんと、触れてみたい私と、利害はこんなにも一致しているのに。

「それでも、私は大人やもん」

正解を言いたかったわけじゃない。けれど、もしもここでユキちゃんの望むとおりにしてしまったら、ユキちゃんが傷つく日が来るだろう。大人が拒んでくれなかったということ。そしてその傷は多分、ユキちゃんが今度誰かを好きになるときに、しこりになってしまうのだ。

「律ちゃんのあほ!」

頬を紅潮させて、ユキちゃんは怒鳴った。脱いだ制服とカバンを掴み、玄関へと階段を駆け下りていく。ドアの閉まる音を確かめてから、私は深く息を吐きだした。

ユキちゃんの忘れていったカーディガンを羽織り、ベッドに背中から沈む。とっくに冷えたシーツにもユキちゃんの気配が残っている。涙の染みた袖口に、そっと頬を擦り寄せた。出社まであと一時間もない。今日は三年生が一コマ。とろとろと眠気が近づいて、先生、と呼ぶ誰かの声を聞く。

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