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吉日(ポラ列から始まる百合④)

演目が終わり、撮影が始まるタイミングでいったん外に出た。外出券を握りしめて、坂をやや下ったところにあるコンビニで常温のお茶を買う。ごめんね、と言ったしおりの声が耳に残っていた。
二度目、と頭の中でつぶやく。しおりから、こういう謝り方をされるのは二度目。

卒業したら一緒にヘアサロンへ行こうと話していた。しおりは髪を切るために。わたしは髪を染めて、すこしでも大人びて見せるために。
インターネットの口コミを調べて、清潔で入りやすそうなホテルの目星もつけていた。振り返ってみれば滑稽なほど健気に、わたしたちはただ触れ合うための準備をすすめていたのだ。

台無しにしたのはわたしの方だった。第一志望の大学で、はじめに受けた学部が補欠。より志望順位の高い学部の合格発表がまだ控えていたものの、進路が確定しないということに、自分が思う以上にナーバスになっていたのかもしれない。

卒業式の日、しおりはあちこちのグループに呼ばれて写真を撮っていた。卒業アルバムの巻末についた寄せ書きはすっかり埋まってしまい、後輩たちからも手紙やプレゼントをたくさん受け取っていた。いつもなら、どれほどの取り巻きに囲まれていてもわたしの視線に気づいてくれる。けれどこの日ばかりはそんな余裕もなさそうで、仕方のないことと頭では理解していてもどこか不当な仕打ちを受けたような苛立ちがぬぐえなかった。

晴れやかな表情のしおりを見ていられなくて、わたしはほかの友だちと一緒に学校を出た。八つ当たりでしかないと自覚していることが余計にみじめでたまらない。こんなみっともないわたしを見せたくないという言い訳の裏側に、気づいてほしいというこじれた甘えがどんどん膨らんだ。

女の子たちとぎゅうぎゅうに身を寄せ合ってプリクラを撮るあいだも、フードコートでポテトを分け合って感傷に浸るあいだも、ポケットの携帯電話が震え出すのを待っていた。わたしの不在に気づいたしおりが、取り乱して必死に探してくれると思っていた。


けれど連絡が来たのはその日の夜になってからで、メールの受信を知らせる短い振動音はやけに大きく聞こえた。身勝手に高まった期待が満たされず、不満と不安でぐらぐらしていたわたしはすぐさま携帯に飛びついた。
目に入ったのは、『髪、いつ行く?』という簡潔なメッセージ。
呆然として画面を見つめていると、しおりから着信が入った。通話ボタンを押して携帯電話を耳に当てると、いつもとまったくかわらない声色のしおりが「起きてた?」とのんびりした声で尋ねた。


「いつにしよっか」
「行かない」
「え?」
「行かない。もう、やめる」


声が震えそうなのを我慢するせいで、妙にきっぱりとした言い方になる。幼稚なわがままから飛び出した言葉ではあったけれど、口に出してしまうとそれは至極自然な決断であるような気がし始めていた。卒業式を終えた学校のかたすみでわたしは、わたし抜きで凛と立つしおりの姿を、未来予想図としてはっきりと見てしまったのだ。


「どうして?」


しおりは努力して穏やかさを保っているような、優しすぎる声でそう尋ねた。説明しなくては、と思う一方で、説明できるはずがない、という確信があった。ずっとそばにいたはずなのに、わたしとしおりはこんなにも違っている。

堂々としたい、周りに認められる関係になりたい。そう望むことの底にある、独占欲や自己顕示欲に疲れていた。たくさんのひとに愛されるしおりを客観的に眺めたとき、わたしの存在だけがしおりに似合っていなかった。


「しおりが、男のひとならよかったのに」


口をついて出たのは、何度も頭をよぎっていた言葉だった。しおりに触れたいと望むたび、わたしの内側にある世間がわたしにうしろ指をさす。男女ならばあたりまえにできるはずのことが、わたしたちには途方もなくむずかしい。

正体のわからないなにかから許されたくて頑張り続けることに、くたびれたと言い出せないままずっと走っていた。いちばん近くにいるひとにいい格好をし続けて、結局いちばん傷つける言葉を吐いた。しばらくの沈黙の後、そっか、というしおりの声が耳に届く。ぞっとするほど寂しい声だった。


「私、男のひとにはなれない」
「……」
「ごめんね、真帆ちゃん」


どちらが電話を切ったのかはもう思い出せない。その数日後にあった合格発表で、わたしは第一志望の大学に進学が決まった。けれど、しおりにはついに知らせないままだった。

ひととひとのつながりが、ほんとうに途切れる瞬間はいつなのだろう。卒業、引っ越し、恋人との別れ。さまざまなかたちの「お別れ」をその都度こなしてきたけれど、それが訪れた直後にはまだ後戻りする余地を残していたような気がする。

日常を分け合わなくなった関係は少しずつ薄まって、いまわたしのそばに彼らはほとんど残っていない。理由なくひとに会うことがむずかしい今の状況が通り過ぎたとき、わたしは誰に会いたいのだろう。

しおりと顔を合わせるのが気づまりで、なかなか劇場に戻れずにいる。荷物は持ってきたのでこのまま帰ってもいいのだけれど、そうすることが正解だとはどうしても思えない。

それから、あの泣き顔と似た笑顔の踊り子をもう一度見たい気持ちもあった。香盤表を頭の中で思い返し、彼女の演目が始まるおおよその時間を予測する。握ったままの外出券が、手の中でだんだんと柔らかくなっていった。


写真、ぜんぶ処分したから。
ごめんね。


しおりはそう言った。あの頃しおりが撮ったポラロイドは、もう残っていないらしい。今日しおりに会うまですっかり忘れていたはずなのに、無いといわれて急に惜しくなる。

しおりが写真を処分したこと以上に、そのあとに続いた「ごめんね」がわたしの胸を締め付けた。あの謝罪は、処分したことに対してではなくて、撮ったこと自体がまちがいだったと言うように聞こえたから。『星の王子さま』に大切そうに挟まれた踊り子の写真。かつてわたしの写真も、あんなふうに慈しまれていたのだろうか。

しばらくして劇場に戻ると、ちょうど撮影の時間が終わるころで客席はまだ明るかった。さっきまで座っていた場所もまだ空いていたけれど、そちらには戻らず後ろにある立ち見のエリアにそっと陣取った。足の間に鞄を置いて簡素な手すりに上体を預けると、座っているしおりの後ろあたまがよく見える。気づまりで外に出たはずなのに、しおりがまだそこに居たことに安堵する自分がいた。

照明が暗くなり、わたしたちはそろっておなじ闇へと混ざってゆく。オープンショーが始まれば、おなじリズムで手を叩く。天井を横切るバーに足を掛けた踊り子が、柔軟なからだを挑発的に見せつける。何人かが立ち上がり、直接触れないように気を配りながら代わる代わるチップを渡した。投げキスやウインク、指でつくったハート。さまざまな飛び道具をあやつって、踊り子は客の心にちゃんと触れてゆく。

やがて舞台は暗転し、お目当ての踊り子の名前が静かな声でアナウンスされる。彼女の演目は、やっぱり異質なものに見えた。それはたとえば、演劇のように始まる物語の構成や、役柄に合わせてひどく地味な衣装、そしてそれを舞台上で着替えて見せる演出によるものだけではなくて、表現のなかに潜む覚悟が感じさせる気迫だと思う。

もちろん、踊り子は皆それぞれの魅力を持っていて、誰かが誰かに似ているということは決してない。あらゆる特別が集まるこの場所で、きょうのわたしが共鳴するのが彼女の演目だったのだ。

観ているうちに、これは「あるかもしれない未来」の踊り子が、「あったかもしれない未来」の自分を思い描く物語なのではないか、という気がしていた。

ひとつの道を選んだとき、そのほかの道は確実に閉ざされる。懸命に日常を走りながら、ふと対岸を走る透明な影を見るように、選ばなかった道にいる自分のことを考える。そこにはきっと、もう会えなくなった誰かの姿もあるのだろう。踊り子が舞台上で着替えた華やかな衣装は、過ぎてしまった過去や選ばれなかった未来の象徴としてわたしの目に映った。

客席を姿見に見立てた彼女は、ドレスを胸に当てた瞬間にふと落胆の表情を見せる。楽しかった過去との時間的な距離や、ドレスを当てて自覚する自身の変化。目の当たりになった隔たりから気をそらすように、彼女はいちどむきだしにしたからだをドレスの中に押し込んでゆく。夢を見るように恍惚とした表情で踊りだし、華奢な脚が軽やかにドレスの裾を弾ませる。やがて衣装はゆっくりと脱ぎ捨てられてゆき、身一つになった華奢なからだの輪郭を真っ白なライトが照らし出す。

たしかな決意をもってたたずむ踊り子の穏やかな微笑みを見ていると、なにかを選び取ることのただならぬ覚悟や、捨てざるをえないものを悼む切ない気持ち、それでも腹をくくって前を向くつよさ、そういったものが胸に直接つたわってくるようで、気が付くとわたしは泣いていた。せりあがる盆を見上げるしおりの表情をこちらから見ることはできないけれど、拍手を送る手は時折顔を覆っている。


客席が明るくなった時、ハンカチで目元をぬぐってから立ち上がるしおりに合わせて、わたしもすこし間をおいてからポラ列へと向かった。さっきまで舞台にいた人とは思えないほどの気さくさで、踊り子は一人ずつのリクエストに応じてゆく。まだ伸びていく列がゆっくりと進んでいく間、わたしはわたし自身の「あったかもしれない未来」について考えていた。 

もしも、卒業式の日にもっと素直になれていたら。もしも、もっと早くしおりに連絡していたら。髪を切ったあの頃のしおりと、髪を染めたあの頃のわたしが、並んで歩くところを想像する。わたしは土壇場でひるんでしまうずるいところがあるから、さんざん調べたホテルに入るときやっぱり躊躇しただろう。ときどき強引になるしおりが、手を引いてくれたかもしれない。

ふたりで忍び込んだトイレと違って、人の目を気にする必要もない。そういう場所でふたりだけの時間を過ごせたら、わたしたちにどんな未来が待っていたのだろう。ふたりで新しい場所をたくさん知って、ふたりで新しい暮らしを作っていって、その先に今日があったなら。

隣同士に座ってあの演目を観る「あったかもしれない未来」のわたしたちを追うように、さっきまでしおりがいた客席に目を移す。置き去りにされたストールと『星の王子さま』。隣には、誰の荷物も見当たらない。


「しおり」

前に並ぶしおりに声をかける。しおりは、まだうっすらと赤い目をこちらに向けて「なあに」と照れくさそうに微笑んだ。

「……演目、良かったね」
「うん、良かった」
「ねえ、しおり。……」


どんなふうに言葉を続けようか迷っているうちに、しおりの順番が来てしまった。しおりはちぎったポラ券を踊り子に数枚渡し、熱っぽく感想を伝えながら何パターンもの表情を写真におさめていく。最後の一枚をツーショットにしたいらしく、振り返ってこちらにカメラを差し出して、ふと思い立ったようにその手を引っ込めた。


「真帆ちゃんも一緒に写らない?」
「え?」
「ほら、早く」


わたしが答えるよりも先に、わたしのひとつ後ろに並んだひとにしおりが手早く消毒液とカメラを回す。ほかの人を待たせてはいけないと思うと抵抗する余裕はなくて、舞台に座る踊り子を挟むような格好でしおりの反対側におずおずと立った。


まだ汗の乾かない踊り子の肌から、香水の匂いが柔らかく立ちのぼる。マスク越しでもわかる甘やかな香りをすいこむと、どこか現実味のない恍惚感に襲われた。
フラッシュが爆ぜる。光のかけらがのこる視界の向こう側に、いまとは違うわたしたちがいる。手を伸ばせばもういちどあちら側に渡れるような気さえして、わたしは目を開けたままあたらしい夢を見る。(了)

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