見出し画像

空席(ポラ列から始まる百合①)

眠るよりもいい夢が見たくて、仕事帰りに立ち寄ったのはストリップ劇場だった。緩い坂を駆け上るとき、くたびれて底の擦れたパンプスがカツカツと尖った音を立てる。似たような曲がり角がたくさんあるのを横目でひとつひとつ確かめて、ひときわ派手な外観の建物へとすべりこんだ。時節柄解放されたままの入り口でアルコール消毒と検温を済ませて、銀行の窓口みたいな受付で料金を支払う。女というだけでチケット代が少し安いことに、ほんの少し罪悪感を抱いてしまう。いやらしい気持ちをもってここにきているのはわたしだって変わりないというのに。


販売されている舞台写真を吟味したくなる衝動をこらえて、すこしでも長く鑑賞をたのしむために階段をおりてゆく。地下にある扉を押し開けると、盆を囲むように配された座席には予想よりたくさんの観客が一心に舞台を眺めていた。


うつくしいものを尊ぶ気持ちと、ひとの秘密や恥ずかしい場所を暴きたい下心は矛盾なく両立してしまう。わたしは舞台を仰ぎながら、ひざまずくような思いで舐めるような視線を送る。神様に恋をした神職者がもしもいるならば、おなじような後ろめたさを抱えるのではないかと思う。対象の存在に感謝し、そのすべてがなにものにも侵されず健やかにあることを願う純粋な祈りの奥底で、気づいてほしい、目を留めてほしいという幼いエゴが呻いている。


演目は終盤だったのか、まもなく照明が明るくなって、緩いTシャツを身に着けた踊り子が舞台袖から小走りにやってくる。列を成す客たちと親しげに会話を交わしながら、シャッターを切る瞬間はプロの表情で演目の余韻を焼き付けてゆく。


撮影の時間が終わるのを待つ間、持ち込んだ本を開く。いつもならば、踊り子と客、あるいは客同士の会話につい聞き耳を立てそうになってしまうのだけれど、きょうは周りの声が全く耳に入らない。電源を切って鞄に押し込んだスマートフォンの存在が、足の間で暗く気配を放っている。そちらに目をやると、鞄を挟む形で八の字になったパンプスの足先が、みっともなく擦れているのがよく見えた。


脚はいつも痛かった。髪をきつく結ぶせいで頭痛がした。ヘアクリップを外しゴムもほどいて、常備している頭痛薬を飲み込む。座席の簡素な背もたれに体を預けると、勝手に深く息がもれてゆく。いつのまにか裸になっていた踊り子を、列を成した客が順番に撮影しては言葉を交わす。服をまとうひととそうでないひとが、当たり前のように同じ空間にいる。荘厳と滑稽が入り交じるとくべつな場所で、わたしは今日はじめて息をしたような気持ちになった。


ふと、視界の端に見覚えのある本の表紙がちらついた。座席に置き去りにされているのは、サンテグジュペリの『星の王子さま』。大好きな作品ではあるけれど、ストリップ劇場と児童書の組み合わせがアンバランスで、声には出さずにすこし笑った。たっぷりしたストールがそばにあるので、いま回収の列に並んでいる女性が持ち主だろうとあたりをつける。順番が来た彼女と踊り子の様子から、ずいぶん通いなれている客なのだろうとわかった。
撮影の時間が終わり、前の回で撮影をしたひとが現像された写真の回収を終えると、オープンショーが控えている。演目は可愛いものからしっとりした雰囲気のあるもの、激しいものやメッセージ性の強いものなど千差万別であるのに対して、オープンショーはからっとあかるい曲調が多い。賑やかな曲に合わせて、下着の奥に秘すべき箇所を大盤振る舞いに見せてくれる。自分の性器をじっと見ることなどまずないけれど、踊り子のそれを見ているとおなじものを備えたからだのことをほんのすこし愛しやすくなるような気がする。


次の演目は異質だった。曲に合わせて踊りを見せるスタイルが多いなかで、まるで演劇のようなモノローグからその踊り子の演目は幕を開ける。中央に据えられた椅子。横向きに腰かけた踊り子。客席からごく近い舞台から放たれる声が、マスク越しの会話ばかりで緩みきった鼓膜につきささる。「服を脱ぐ」というゴールは同じはずなのに、そこに至るまでの物語が踊り子の表情や指先、視線の動かし方ひとつひとつで丹念に紡がれてゆく。『星の王子さま』の女が隣で息をのむ声が聞こえた。


ふだん見ることのできない他人のからだ。焦らすように何度も思わせぶりなしぐさで垣間見せた肌が、徐々に露わになってゆく。同時に、見えないはずのストーリーが踊り子と観客のあいだに発生し、客たちはそれぞれが見たい世界に酔ってゆく。ある者は傍観者として、ある者は主人公として、かつての自分や在りたかった自分を重ねては静かに唾をのむ。踊り子の乳房が露わになる瞬間、天を向いた顎から喉、みぞおちの線をゆっくりと伝い落ちる汗のひとすじまで見て取れる距離でその肢体を眺めながら、躍動する筋肉の収縮や荒らげた呼吸のかすかな唸り、そのどれも取りこぼさず目に焼き付けたくて、感覚に限界のあることがひどくもどかしい。


崇拝と背徳、たいせつなもの、きれいなものを愛するために汚してしまう罪悪感と高揚、葛藤を突き抜けた先にある純粋な喜び。裸が当たり前だった神話の世界のように、退廃的でゆるされた世界が舞台の上で演じられてゆく。冒頭の張りつめた雰囲気とは一転してポップになった曲に合わせ、踊り子一人を乗せた盆がゆっくりとせりあがる。誰もが彼女を見上げる格好となり、そののびやかな体があらゆる格好でひらかれてゆくのを精一杯の拍手で称える。真後ろから放たれた光が彼女の輪郭をしろくふちどって、まるで夢を見ているように目ではない器官へと彼女の存在が刻まれてゆく。


暗転。二人分の声が静かに流れるものの、踊り子の姿はどこにもない。下がった盆は舞台の一部へと戻り、通り過ぎた一切がまるで夢だったかのように静まり返っている。やがて声が止み、一条の光が舞台の中央に注がれる。闇に浮かぶような椅子だけが彼女の存在をかすかに証明し、やがて演目は終わる。


照明が戻り、舞台袖から踊り子が現れるとまるで白昼夢から覚めたように客たちが立ち上がり、撮影の列に並び始める。となりの女性が立ち上がり、しばらく余韻で呆然としていたわたしも一歩遅れるかたちで長蛇の端っこに加わった。前に並ぶ彼女が鼻をすする音が小さく聞こえる。


列が進み、備え付けられた消毒用のアルコールに手を濡らしながら、何を話そうか考えている。きょうは仕事がひときわつらかったこと。それも吹き飛ぶくらいすばらしい演目だったこと。あれこれ考えて、自分語りが恥ずかしくなって前半は省くことにする。残るのはありきたりな賞賛の言葉ばかりで、それならば長々というほどでもないかもしれないと思いつつすこしでも踊り子の視界に入っていたい浅ましい下心が顔を出す。


「すみません、シャッターいいですか?」


思いがけずわたしに向けた声がして、はっとして思考を中断する。目を赤くした「星の王子さま」の女が、こちらにデジカメを差し出している。踊り子とのツーショットが撮りたいようだ。頷くだけの了承をしてデジカメを受け取る。はいチーズ、というのがなんだか照れくさくて「3、2、1」とカウントダウンしてシャッターを切った。


「ほんとに素敵でした。ずっと前、好きだった女の子のこと思い出しちゃって……」


撮影を終えたあと、並んでいるわたしやその後ろを気遣ってか早口になりながらも、女は名残惜しそうに演目の感想を伝えている。自分の記憶と重ねてしまう受け止め方がわたしもおなじだったので、この次に順番が来たとき伝えるべきことがすっかりわからなくなってしまう。


結局わたしは簡潔に「よかったです」とだけ言って、踊り子単体の写真を一枚撮らせてもらった。うまく伝えられなかったことがくやしくて、列の先頭から離れるとき未練がましく振り返ってしまう。とっくに次の客を見ているだろうと思っていた踊り子は予想外にわたしを見ていて目が合った。どこか泣き顔と似ている彼女の笑顔をまっすぐに受け止めて、沈みかけた胸の内側がふわりと浮き上がるような心地がした。


撮影の列はまだ伸びていて、回収を待つひとも入れるとオープンショーまではもう少し時間がありそうだった。微笑みを向けてもらったうれしさでぼんやりしていると、「あの」と小さな声が隣から聞こえた。


「あの、……真帆ちゃん?」


『星の王子さま』の上で、きれいにネイルを施された手がきゅっとこぶしを握っている。顔を上げて表情をうかがう。マスクで目のところしか見えないけれど、「真帆ちゃんだよね?」と重ねて名前を呼ばれると頭の中で声の主の記憶が呼び起こされてゆく。


「しおり?」


かつての親友の名前が、意外なほど自然な声になって唇から漏れ出した。
次の言葉に迷っているうちに撮影の時間が終わり、オープンショーが始まった。お互いに相手の存在を体の側面でひしひし感じ取っているのがわかる。もう会うことはないと思っていたそのひとと並んで、女性の裸を眺めている。


私、男のひとにはなれない
ごめんね、真帆ちゃん


目の前で露わにされる踊り子の性器を見つめながら、遠い日に受け取った言葉が頭を駆け巡る。踊り子と目が合うと、先ほどの感動が鮮やかに蘇った。一旦しおりのことは頭から追い出して、財布をもってそっと立ち上がる。技術に対する賞賛と応援の端っこに、ほんのすこし償いを込めて、なるべくしわのないきれいなお金を踊り子に差し出した。彼女はあの泣くような笑顔をわたしに向けて、長いまつげを伏せるとそっと唇をひらいた。畳んだ千円札をもう一度ぬぐうようにこすってから、咥えやすいように横向きで差し出す。チップを受け取った踊り子の、ありがとう、という鼻に抜けたやわらかな声にうっとりとしつつも、しおりがわたしを呼ぶ声が頭の端によみがえる。


崇拝と背徳、たいせつなもの、きれいなものを愛するために汚してしまう罪悪感と高揚。舞台のうえに見たものは、かつてのわたしたちがたどり着けなかった場所だった。(続く)

※黒井ひとみさん@AlTni9 のこちらのツイートから着想しました


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?