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#48 要約練習課題⑯

問1 筆者のいう「道具的人間関係」について説明しなさい。(100字以内)
問2 筆者の考える「自立」とはどのようなものかを述べなさい。(100字以内)

スライド36

 この頃の若者に特徴的なことの1つに、自立志向がある。それ自体はよいことである。しかしそれが奇妙にねじれている。若者たち自身どこかでそれを感じながら、明確に気づいてはいない。それは自立を依存の対極とみなし、自立するためには依存を切り捨てねばならぬとする、一種の固定観念による。
   中略
 私の好きなことばに、小児科出身のイギリスの精神分析家、ウィニコットの「2人いるから1人になれる」というのがある。これは母子関係についていわれたことばであるが、結構ほとんどの人間関係に通用すると思う。つまり小さい子どもは、母親のいることがわかっている場合にのみ、自分自身の好きなこと、たとえば積み木遊びや絵本に夢中になれる、という意味である。母親がいないと不安に駆られ、とても積み木遊びどころではない。ここで母親は、その存在を忘れられるためにそこにいなければならない。(ただしここでいう母親は、必ずしも生みの母親でなくてもよい。母親役を引き受けている人、のことである)。
 ウィニコットはさらに、「自立とは2人いて1人でおれる能力」だ、といっている。だから、2人いるから2人で何かを、というのは、子どもがある程度以上の年齢になると、一見子どもに関わるようにみえて、多くはお節介である。子どもは自由に遊ぶことができなくなり、いわば窒息してしまう。ここで大切なことは、それでも母親の存在は不可欠だ、ということである。もう1人の人がいるからこそ1人になれる。
   中略
 彼らの自立志向が依存の切り捨てになりがちなことはすでに述べた。その結果でき上がるのが道具的人間関係である。これは、一切の人間関係をおのれの欲求充足のための道具、とみる考え方である。現在、すべてのことをおのれ1人で満たすことが不可能だとすれば、何らかの人間関係をもたざるをえない。しかし若者たちは、それらをすべて、かけがえのある関係にとどめようとする。たとえばテニスをしようとすれば相手がいる。それがかけがえのない相手であれば、その相手がいなくなればテニスをすることができなくなる。テニスができるかできないかは、あげてその相手の存在にかかる。これほど自立をおびやかす関係はない。だから若者は、欲求充足の相手をかけがえのある人に限定する。今日の相手がいなくなっても、クラブに行けばいくらでもかけがえがある。特定のこの人に依存することなく、おのれの欲求は満たされるわけである。
 こうしてかけがえのある人間関係のネットワークができあがることで、若者は特定の誰に依存することもなく、欲求充足の相手に事欠かなくなる。自分中心、自分本位の、いわばほぼ完全な自立の態勢を作りあげるのである。しかしここに大きな落とし穴があった。かけがえのある関係しかもたぬ者に、おのれのかけがえのなさは実感できないからである。かけがえのなさを感じるためには、相手によってかけがえのない存在として扱われる必要がある。かけがえのある関係では、自分もまた相手にとってかけがえのある存在にすぎない。その限り、かけがえのない存在として自分を感じることができないのである。
 そもそも道具的人間関係とは、主体としてのおのれの立場を確かめるための手立てであった。もっぱら依存性を切り離し、つねに世界の中心に不動の自分をうち立てるはずのものであった。それが、その目的の達せられたその瞬間、まったく手応えのない自分、かけがえのいっぱいある自分が立ち現われる。ふたたびウィニコットのことばを借りれば、「依存のない自立は孤立にすぎない」のである。その空しさを、若者たちは、絶え間ない欲求充足によって免れようとする。しかしそれらは、所詮自転車操業的な一時的なものにすぎない。今日、軽やかな若者たちの胸に、以上述べてきたようなアイデンティティの喪失感、つまり、他ならぬ、かけがえのないはずのおのれが、一体何者であるのかがわからないという、根強い不安の巣くっていることを見逃すことはできない。
(氏原寛『カウンセリングの枠組み』ミネルヴァ書房2000年8月)

解答例

問1
道具的人間関係とは、人間関係をおのれの欲求充足のための道具とみる考え方である。かけがえのない人間関係を構築するわけではなく、おのれの立場を確立するための手立てとしてのみ人間関係を利用する考え方である。(100字)
問2
自立とは、かけがえのない人間関係に依存しながら他者と自己の双方にかけがえのなさを実感できる状態のことである。それによって人は自分が何者であるのかを明確にでき、アイデンティティが確立するのである。(97字)

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