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#59 現代社会の問題②(格差の構造)

次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。(90分)

問1 筆者が論じている「格差」は、人々と社会にどのような影響を及ぼすのか、説明しなさい。(200字以内)
問2 本文の最後の太字部分「そう、やる気にさえなれば」という表現から、筆者は現代の日本社会をどのように考えているか。そしてあなたは、今後の日本社会をどうしていけば良いと思うか。自分の意見を書きなさい。(400字以上600字以内)

スライド8

 従来の貧困の概念と社会的排除の概念が異なるのは、後者が、金銭的・物質的な欠乏から人間関係の欠乏に視野を広げたということだけではない。社会的排除が、貧困と異なるいちばん大きな点は、貧困は「低い生活水準である状態」を示す概念であるのに対し、社会的排除は「低い生活水準にされた状態」を示すという点である。すなわち、「排除」という言葉から連想されるように、社会的排除は、誰か、または何かが、誰かに対して行う行為である。排除される側と排除する側があるのである。
 従来の貧困の考え方は、市場経済の営みそのものは不問としたうえで、その中で発生する貧困問題は「自然の成り行き」と理解し、貧困は、その貧困の当事者側の問題であると理解するものであった。すなわち、悪いのはその人の学歴が低いから、離婚したから、結婚しないから、単身世帯だから、障害を抱えているから、小さな子どもがいるから……など、その人に起因する理由がもとで困窮が発生していると考えるのである。孤立や社会サポートの欠如についても同様である。孤立してしまった人やサポートのない人が、そのような状況になったのは、その人の家族が悪いからだ、その人の性格に問題があるからだ……と、あくまでも、問題の所在はその人と理解する。そこには、いつも、「自己責任だから」という暗黙の了解が流れている。
 これに対して、社会的排除は、問題が社会の側にあると理解する概念である。社会のどのような仕組みが、孤立した人を生み出したのか、制度やコミュニティがどのようにして個人を排除しているのか。社会的排除に対する第一の政策は、「排除しないようにすること」なのである。たとえば、なぜ、単身世帯であることが、社会的孤立につながるのか。なぜ、同居の家族以外の社会サポートが築きにくいのか。それは、社会の側から、手を差し伸べることをしていないからではないか。その人が、人とつながり合うことを躊躇(ちゅうちょ)してしまうような要因を、社会の側が作っていないか。社会の仕組みが、人々をより孤立へ、排除へ、貧困へ、追い込んでいるのではないだろうか。意図せずとも、社会の仕組みや制度が、人を排除に仕向けているのではないか。社会的排除の概念は、社会のありようを疑問視しているのである。これは、大きな発想の転換である。

 そして、近年、社会のありようとして、大きく問われているのが「格差」である。この格差論に火をつけたのは、イギリスのノッティンガム大学医学部の社会疫学者であるリチャード・ウィルキンソン教授(現・名誉教授)である。 (中略)
 ウィルキンソンの指摘が衝撃的であるのは、「格差」が大きい社会に住むことは、誰にとっても悪影響を及ぼしていると論じている点である。彼は、「格差」が大きいことが、「格差」の底辺の人、すなわち貧困や社会的排除の状態にある人々が多いことを意味するから問題であると言っているのではない。「格差」が大きいということ、そのこと自体が、社会にとって望ましくないという指摘をしているのである。
 格差が大きい国や地域に住むと、格差の下方に転落することによる心理的打撃が大きく、格差の上の方に存在する人々は自分の社会的地位を守ろうと躍起になり、格差の下の方に存在する人は強い劣等感や自己肯定感の低下を感じることとなる。人々は攻撃的になり、信頼感が損なわれ、差別が助長され、コミュニティや社会のつながりは弱くなる。強いストレスにさらされ続けた人々は、その結果として健康を害したり、死亡率さえも高くなったりする。これらの影響は、社会の底辺の人々のみならず、社会のどの階層の人々にも及ぶ。これが、格差極悪論の要約である。
 疫学、社会政策学、経済学、社会学、福祉学など、さまざまな分野の研究者によって、ウィルキンソンのこの主張を裏付ける研究が続々と蓄積されつつある。くどいようだが誤解を招かぬように補足すると、ウィルキンソンは「貧困」があるから、すなわち、社会の底辺の人々、排除されつつあるような人々がいるから、社会の上層部の人間までも害を被る、と言っているわけではない。ウィルキンソンが問題としているのは、「格差」の存在なのである。人々を「上」や「下」の段階にランク付けするシステムの仕組みを問題としているのである。

 社会的排除が提示した、人々が社会的排除に追い込まれるのは「社会のありようが問題」という視点。「格差」が「社会のありよう」として、人々に多大な悪影響を及ぼすという「格差極悪論」。この2つは、別々の文脈から提起されているものの、延長線上にある。なぜなら、ウィルキンソン教授の主張の根幹にあるのは、「格差」は社会における人間関係の劣化を促すという確信だからである。
 ウィルキンソンの分析によると、格差の大きい社会ほど、自分より社会的地位の低い(と考えられている)人々を差別する傾向が強いという。彼は、この傾向を説明するのに、20世紀にナチスがホロコーストを引き起こした社会的心理を分析するのに用いられた「自転車反応」という言葉を援用している。

階層性の強い権威主義的社会では、人は上位の者に対しては(まるで自転車競技の選手のように上半身を前に傾けて)頭を低く下げ、一方、(下半身はベダルを漕ぐように)下位の者を足蹴にするからである。(『格差社会の衝撃』37ページ)

 このような「自転車反応」が蔓延する社会において、社会的排除の傾向が強まることは容易に想像がつく。一部の人を排除に追い込みながら、その他の人々が円満に仲良く暮らすというような社会は考えにくい。前章で紹介した公園のベンチの話を思い出してほしい。ホームレス対策として設置されたベンチは、結局のところ、誰もが安心して楽に休めるベンチではなくなってしまった。一部の人が排除される社会は、すべての人が生きにくい社会なのである。 (中略)

 不信感。攻撃的。このような格差の影響は、自分と異なるものに対する差別と偏見という形でも現れる。格差の大きい社会ほど、女性の地位が低く、社会進出が遅い。不平等な社会においては、男性間の競争が激しく、より攻撃的で「男らしい」ことが評価されるようになるからである。この傾向は、男女格差だけに留まらない。格差の大きい社会ほど、人種や宗教などといったグループ間の対立が激しく、人種間の偏見の指数が高いのである。社会的地位の大きな差がある社会では、人々は自分の下に誰がいるのかということを常に意識し、それを確かめることによって優越感を高めようとする。格差は、社会の中で亀裂を作り、上下関係を強いるのである。
 本章の最初に紹介した「自転車反応」は、社会的地位が高いものが、自分より低いものを攻撃し、攻撃されたものが、さらに低い地位にあるものを攻撃するという、連鎖反応を起こす。哀しいことに、この「自転車反応」は、階層を形成するチンパンジーなどの霊長類に見られる行動であると言う。人間は、格差社会に放り込まれると、チンバンジーと同じ反応をしてしまうのであろうか。 (中略)

 ではなぜ、このような敵対関係が存在するのであろう? ウィルキンソンによるその1つの答えは、人間は自分と似た社会的地位にある人と交流し、仲間意識を持ち、自分から離れた社会的地位にある人とは関係を持つことが少ないということである。関係を持つことが少ないと、人は信頼することができない。格差が大きい社会においては、自分と離れた地位にある人々が増えるため、すべての人にとって信頼できる人が少なくなるわけである。
 格差と人間関係の劣化を結ぶもう1つのリンクが自尊心である。格差が大きい地域や国においては、社会的地位が低い者は自尊心を保つことが難しい。自尊心を傷つけられたことに対する反応として、暴力に走ってしまうこともある。ウィルキンソンは、犯罪研究の蓄積の中から、暴力行為の大半が、恥をかき、面子(メンツ)を失い、自尊心を傷つけられたことに対する反応である、とする。特に、若い男性にはその傾向が強い。格差が大きい社会においては、「地位争いが激化し、地位の重要性が高まる」。その結果として、人々が自尊心を失うリスクが高くなってしまうのである。
 これまで私は、宇宙の果てまで宇宙船を飛ばしたり、DNAを全解析するほどの科学力を人類が持つようになった21世紀において、社会ではいまだに暴力や差別・偏見が満ち溢れていることに、あきらめを感じていた。人間というのはそのような動物なのだ。戦争はなくならない。差別もなくならない。これは、人間の「性(さが)」なのだ……と。 (中略)
 しかしながら、逆説的ではあるが、格差が人間を攻撃的にし、人間関係を悪化させ、暴力や差別を生むという指摘は、ある種の希望を私の中に芽生えさせた。なぜなら、格差は人間社会の産物であり、克服可能なものであるからである。実際に、多くの国が、市場における格差や貧困の大半を削減させることに成功している。やる気になれば、格差は削減させることができる。そう、やる気にさえなれば。
(阿部彩「弱者の居場所がない社会」2011年)

【解答例】

問1
格差は社会のどの階層の人々にとっても悪影響を及ぼす。格差の上の方にいる人々は転落することを恐れ、自分の社会的地位を守ろうと躍起になる。一方で、格差の下の方にいる人々は強い劣等感や自己肯定感の低下を感じることとなる。そして社会的地位の高いものは、自分より低いものを攻撃し、攻撃されたものはさらに低い地位にあるものを攻撃するという、連鎖反応を起こす。こうして格差は社会に亀裂を作り、人間関係を悪化させる。(200字)
問2
 筆者は現代の日本社会は「やる気」がないと考えている。「やる気にさえなれば」という仮定表現は「現実にはそうなっていない」事実を暗に示している。しかし、だからこそ日本社会は「やる気」にならなければならない。筆者の指摘する格差の問題は改善されなければならない。
 ただし、多様性が重視される現代では「差」自体はあっていいはずである。問題なのは上下の序列を作る格差である。筆者の指摘する通り、序列としての格差は人々を上と下に分断し、関係性や共同体に断絶を作る。しかし一方で、現在非常に重視されている多様性の価値観は、格差とは逆に、人々を有機的に結びつける。それは性質や適性の差異を内包しながら関係性や共同体を構築・維持する発想である。そこには決して分断は生まれない。
 だから、これからの日本社会は、制度的にも文化的にも多様性を基軸に変化しなければならない。特に経済格差や雇用格差を是正するためには、新たな制度設計とビジネスモデルが必要だ。民官ともに新しい働き方をデザインすべきである。そして個人には新たな価値観やマインドセットが必要だ。それは性質や適性の差異を許容し、差異を有機的に結び付けていく文化である。それが構築できれば、少しずつでも上下の分断としての格差は解消される。なぜなら、差異を持った者同士でも関係性と共同体を構築できるからだ。それがこれからの日本に必要な変化であろう。(585字)

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