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#45 要約練習課題⑬

【課題】次の文章を読み、本文内容を100字以内で要約しなさい。

スライド33

〈対話〉の基本トーンをなすのは、相手を議論で打ち負かすことではないが、さりとて相手の語ることに同意し頷くことではない。むしろ、わからないことを「わかりません」とはっきり言うこと、相手の見解と自分の見解との小さな差異を見逃さず、それにこだわり「いいえ」と反応することである。〈対話〉は各個人が抱く意見の「小さな差異」を確認しながらゆっくりと忍耐強く進む。
 テーマが「エイズ患者の人権について」であるとしよう。その場合、エイズ未感染者(A)とエイズ保菌者(B)とエイズ発病者(C)が〈対話〉を営むさい、AとBとCが置かれている状況は異なる。よって、AとBとCとは交換可能ではない。AとBとCがみずからの状況を消去して、交換可能なかたちで〈対話〉することは、不可能である。
 もし、Aが「エイズに感染していない者の忌憚のない気持ちを述べれば、エイズ患者とはなるべく接触したくない」と語り、Cが「エイズ患者の身からすれば、病気そのものよりも人々の差別的視線のほうが数倍つらい」と語り、Bが「エイズ保菌者はほとんど健康人と変わらない生活ができるのだから、差別してはならない」と語るとするなら、これらはたんなる独白の集合であり、〈対話〉ではない。A・B・Cが自らの状況を超えた視点をもたなければ、少なくとももつように努力しなければ〈対話〉は成立しないのである。
 したがって、〈対話〉を遂行する者は、一方で、自分の置かれた状況から独立の「客観的態度」をもって語るのではなく、他方、自分の置かれた状況に完全に縛られて「主観的態度」をもって語るわけでもない。〈対話〉はちょうど両者の中間を行く。自分の固有の状況・体験・感受性をまるごと引きずりながら、しかも客観的真理を求めて語り出すのである。
 もしAが〈対話〉を遂行しようとするのなら、彼(彼女)はBやCの立場を安易に「わかる」と決めつけるのでもなく、「わからない」とつっぱねるのでもなく、「わかろう」と努力する。その場合、自分の状況と相手の状況とを見渡す公平な(第三の)視点を得るのではなく(それは得られない!)、あくまでも自分の状況にとどまったまま、相手の状況を理解する二重の視点を獲得するのである。
 Aのみならず、BもCも同じルールに従うとき、そこに豊かな〈対話〉が開かれるであろう。「エイズ患者も健康人も互いによくわかり合えるよ」というウソははびこらないであろう。「エイズ患者でもないおまえに何がわかる!」という暴言も「エイズ患者のおまえに何が言える!」という暴言も聞かれないであろう。地道な手さぐりが、慎重な歩み寄りが、念入りな違いの確認があるであろう。限りない「わかった」と「わからない」との揺れがあるであろう。はてしない「ここまではわかった。だが、ここからはわからない」という限定が続くであろう。この営みこそ〈対話〉である。
〈対話〉とは他者との対立から生まれるのであるから、対立を消去ないし回避するのではなく「大切にする」こと、ここにスベテの鍵がある。
 だが、他者との対立を大切にするようにと教えても、他者の存在が希薄な社会においては何をしていいかわからない。そうなのだ、本当の鍵は他者の重みをしっかりとらえることなのだ。他者は自分の拡大形態ではないこと、それは自分と異質な存在者であること。よって、他者を理解すること、他者によって理解されることは、本来絶望的に困難であることをしっかり認識すべきなのである。われわれ聡明な日本人は、じつはこんなことは頭ではよく了解している。しかし、(とくに公の席では)他者との摩擦がまったくないかのような、みんな心が通じ合っているかのような、つまりあたかも他者がいないかのような態度をごく自然にとるのだ。
(中島義道『〈対話〉のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの―」PHP新書1997年11月)

解答例

他者とは本来異質な存在である。そのため他者を理解すること、他者によって理解されることは本来絶望的に困難なことである。ゆえに〈対話〉とは差異や対立を大切にしながら他者を理解しようとする態度のことである。(100字)

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