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#52 要約練習課題⑳

【課題】2002年度から文部科学省は学習指導要領の改定を実施します。この改定は「ゆとり教育」といわれていますが、その実施については多くの議論が起こっています。次のA・Bの文章を読み、本文内容をそれぞれ100字以内に要約しなさい。

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A これからの時代に求められる人材

 詰め込み教育からの脱却を目指し、旧文部省は2002年度から実施される学習指導要領の全面改訂を行うことを決めた。この改訂に対して、子どもたちの学力がさらに低下すると、危惧の声があがっている。これらの批判は、ともすれば「教育内容の3割削減」といった表面的な事柄だけが一人歩きし、国民の皆さんの危機感をあおっているように感じられる。なぜ、学習指導要領の全面改訂に踏み切ったのか。
 戦後日本において、復興、そして高度経済成長を目指していた時代には、優秀で、同じような能力を持った人間を〝大量生産〟することが求められていた。しかし、これからの国際化や高齢化、あるいはIT革命といったドラスティックな変化の時代には、均質より、むしろ1人ひとりの固有な能力が尊重され、それを活かすことが社会に枢要な条件になってきた。そのため、これに対応した教育システムの構築が求められるようになってきたのである。
 そのためには、まず同学年の生徒が同時に全く同じ内容の教科を学習するという従来の方法を改めなくてはならない。そのためには、全員が知っておくべき必修部分と、それ以外の部分とをきちんと峻別し、必修以外の時間は各生徒が自主的に学びたい分野を選択する「選択のゆとり」を徹底する必要がある。そうすれば、学習の過程で子どもは好きなことに打ち込んで学ぶ喜びを感じるとともに、自分ら得意分野を知ることができ、それが将来の進路選択に役立つことにもなる。


「ゆとり」とは〝何〟のゆとりか
 一方で、一律に同じことをさせられるがゆえに勉強そのものが嫌いになってしまったり、嫌いなまま学校に通っているうち授業内容が全く理解できなくなったりするという事態も起こってしまっている。また、社会が豊かになり、とりあえず不自由なく生きていくことが可能になったこと、少子化が進み入試の競争率も低くなってきたこと、いい学校に進学して安定した会社に入社すれば一生の幸福が約束されるという社会常識はもはや過去のものとなったことなど、これまでの社会で学習意欲を形づくっていた要素が失われてきている。そこで、授業がわからない子どもをなくし、学ぶことの楽しさを味わい学習意欲を高めるためにも、1度学習したものを改めて十分に咀嚼する「反芻のゆとり」が不可欠になってきた。教育における「選択のゆとり」や「反芻のゆとり」は、子どもたちに「気持ちのゆとり」を与えることにつながっていく。なぜなら、「キレる」といった言葉で表現されている中学生の声に耳を傾けてみると、他人と同じことを強制されたり、「早くやらなくては脱落する」とせかされることが、彼らのイライラの大きな要因だとわかってきたからだ。


「ゆとり」=「やらない」ではない
 今回の全面改訂は、こうした問題点を踏まえ、「選択のゆとり」や「反芻のゆとり」を実現すべく構想された。誤解されやすいのだが、3割削減といっても、減らした部分を学ばないまま終わらせるということではない。高校進学率が約97 %の現在、最低限の知識や技術を中学校までの9年間で詰め込む必要はなく、高校2年の半ばぐらいまでにゆっくりと習得させる、いわば「2割減速」の試みである。減速して生まれてくるのは、「反芻のゆとり」にほかならない。例えば、数学の授業でいえば、これまで公式を使った計算方法だけしか教えなかったものについて、実生活に結びつけて学ぶことを可能にし、それが何のために必要なのかを教えられるようになるのである。


「ゆとり」により養われるもの
 子どもに自由な選択の余地を与えると、野放図になってしまうのではないかという批判もある。「自由選択」の名のもとに、楽な方向に流れていかないかという心配だが、たしかに単位が取りやすいという理由で、安易な選択に走っている大学生をよく見かける。だからこそ子どもの頃から正しい選択を行う力を身につけさせ、自分の選んだことに対して責任を持たせることが必要になってくるのである。「選択のゆとり」は徐々に与えていかなければならないというのは、そうした理由からである。具体的には、まず小学校1年の段階では、選択の余地はほとんどなく、全員がほぼ同じ学習を行う。3年生以上になると、1割ほど「総合的学習の時間」を取り入れ、教科書のない自由なテーマを選ぶ余地を与える。中学校に進学すると、小学校で設けられた「総合的学習」のほかに、選択の時間が1時間用意される。高校では、全員が共通に学ぶ科目を3割から4割に抑え、6、7割を生徒の自主性に任せる。つまり、自分の裁量で勉強する範囲を少しずつ広げながら、正しく選択する方法を学ぶのである。
 そうすることによって、新しい小学校や中学校で学んできた子どもたちが自ら学ぶ主体性と正しい選択眼を持つことになり、彼らがどんな高校や大学を選ぶかによって、今後の高校や大学を本格的に変える原動力になっていくだろう。今回の改革によって、やがては生徒全体の学力が向上していくと考えている。
(寺脇研「『ゆとりある教育』は何をもたらすか」 『激論!日本人の選択(上)』学館文庫2000年12月)

B なぜ数学を学ぶのか

 最近の教育は「個性重視」だそうです。旧文部省は、これまで「ゆとりの教育」、「生きる力」など実体のないコピーで文教政策を進めてきました。「個性重視」もその1つです。
 フリーターの急増が深刻です。報道で必ず目にするのが「自分がやりたいことが分からない」、「自分の適性にあう仕事がわからない」という若者たちの姿です。この裏側にあるのが、高校での選択科目の大幅な増加です。大学の問題としてとしては「少数科目入試」があります。以前は、高校3年生から理系・文系に分かれました。今は、高校2年生から理系・文系に分かれる高校が多く、高校1年の夏には、その進路決定を追られることも多いのです。旧文部省の政策担当の課長(当時)が、科目選択によって自己責任ということを学ばせる、とまでいっていますが、人生経験のほとんどない15歳の子どもにそのような決断を迫る社会はある意味で異常ではないでしょうか。しかも科目選択に失敗するとやり直しをする教育機会が日本には用意されていないのです。
 98年度に私立文系の大学1年生の数学学力を調査した結果では、数学を受験科目としない学生は、高校レベルの数学力を持っていないどころか、中学・小学校程度の能力も維持していません。小中学生レベルの計数能力も怪しいのに経済学を学ぼうとする学生がトップレベルの私立大学にもごろごろいます。数学に限らず他の科目でも同様です。生物を全く高校で学ばないで医学部に入学したり、高校で世界史を全く学ばないで中世英文学を学んだり、高校で高度な微積分や物理を学ばないで工学部に進学する学生もたくさんいます。
 たとえ自分にあった仕事、職業などというものが幻想にすぎないとしても、進路の決定を先延ばせる方が豊かな社会ではないでしょうか。以前は数学科を卒業した後に医学部に行った先輩・同級生は多くいましたし、逆に、文学部の大学院や、医学部を卒業した後で数学・物理の大学院に進学してきた先輩もいました。このようなことが可能だったのはなぜでしょうか。それは、高校でしっかりと基礎学力をつけたからです。
 大学に進学する人の場合、数学を高校で学ぶ理由は明らかです。数学と縁が最も遠そうに見える文学部はどうでしょうか。哲学は思考の科学である以上は数学的な発想を抜きには成立しないはずです。社会学・心理学の専門的なレベルの理解には、高度な統計学を必要とします。そのために必要な数学は非常に高度です。図書館情報も文学部の中にありますが、データーベースの発想などは数学が理解できる頭でないと難しいでしょう。チョムスキーは、数学を用いて言語学の基礎を作ったのです。数理的な能力抜きには非常に狭い範囲のことしか理解できなくなるということは、ぜひ社会の人に再認識して欲しいことです。
 大学で学問をするだけのために高校・中学で数学を学ぶのではありません。論理的な思考力を育むことができる教科は数学だけといっていいでしょう。経済活動は数値の世界です。社会生活を送る上での数理的な感覚は絶対必要でしょう。数学科の私の先輩のゼミのゼミ生がファミリーレストランで働いていて、1リットルのスープはつくることができるけど、1.5リットルのスープはつくれないバイト仲間がいたといっています。その先輩が植木屋さんから、最近の若い職人は薬剤の散布量を計るのに必要な面積の計算ができないと聞きました。
 情報化時代を豊かに生きる1つの道は、プログラミングができる頭をつくることです。それを可能にする基礎教育はいまのところ数学しかないと思います。現在の20代の情報処理技術者の層は30代・40代に比べて非常に薄いのです。20年前は、文系の女子大生の就職先として計算機関係がありました。それが可能だったのは、高校で数学を十分に学んでいたからです。最近の数学離れと数学自体が論理性を軽視する形になったために、若年層、特に文系の出身者はプログラミングできる基礎能力を身につけていません。
 2002年度からの指導要領では電卓を使わない限り、円周率を3として計算することになります。小数第1位までの筆算しか教えないからです。このことを「バケツでウランを汲むようなものだ」と言った先輩がいます。日本の技術社会の多くの部分が成熟期を迎えて、末端がすべてマニュアル化されてきています。それが、全体を根本から理解するということを意味のないことだと考える社会にしています。人生の過半をおえた40歳以上の大人が自分の人生の中で受けたあの教育は意味がなかったといって、どんどん公教育を軽くしていっています。大学の中でも同様です。近代経済学と無関係の経済学者は、自分が現在使う能力さえあれば現在の自分が成立すると考え、入試から数学の必修を外し、さらには大学のカリキュラムを形骸化させていったのです。このような社会の風潮が新たなイノベーションを生み出さない社会を生み出し、多くの医療事故を引き起こし、さらには「個性重視」の教育を通して職業選択の幅の狭い学力の低い若者を生みだしているのです。
 これに対し、旧文部省は、小学校・中学校の教科内容を軽くする代わりに、高校で選択制を活用して集中的な学習をするから問題ないと主張してきました。しかし、アメリカでは、高校の選択制の拡大は誤りとして、今から20年前に止められた政策なのです。
(戸瀬信之「個性化教育のもたらすもの」 『学力低下と新指導要領』岩波ブックレット2001年6月)

解答例


これからの時代には1人ひとりの固有な能力が重視される。子どもたちは自ら学ぶ主体性と正しい選択眼を養う必要がある。そのため学びたい分野を選択する「選択するゆとり」のある教育は導入されるべきである。(97字)

最近の教育は「個性重視」で選択科目が増しているが、数学など学力の基礎となる科目は選択制にすべきでない。でないと、職業選択の幅の狭い学力の低い若者を生み出し、社会に新たなイノベーションが生まれなくなる。(100字)

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