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『ワールドワーク2023』から半年が過ぎて vol.3

『ワールドワーク2023から半年が過ぎて』の2つのnote記事では、自分の内面や身近な人との間で起こった変化について書いた。

記事を書きながら、この半年の自分を丁寧に振り返ることできた。

やたらと濃厚な半年間だったなぁとか、半年前の自分と今の自分の心の在りようの違いを感じてずいぶんと遠くまで来たもんだなぁとか、そういう気持ちになっている。

そんな今、改めて私にとって『ワールドワーク』ってなんだろう?と考えている。

考えてみた結果、まず思い浮かんだのはワールドワークの『非日常』と『日常』のこと。

あくまでビギナーの私の現時点の理解だけど・・・、

  • 『非日常』のワールドワーク

私が半年前に参加したワールドワーク2023のような場だ。
社会課題など世界で起こっている問題や葛藤を扱って、みんなの想いや考えのリアリティをわかち合う。
そこにある難しさやどうにもならなさにも痛みにも、体感的に触れたり、感じたりしながら、じゃあ、私たちはどうこの問題に、この問題に関わる人(自分も含めて!)に関わっていけるのか?を集団で探究していく場のこと。

やっぱりとても特別で夢のような時間だと思う。
特別な場だからこそ、思い切って話せることがあって、いつもよりも耳を澄ませることができるんだなと思う。

  • 『日常』のワールドワーク

非日常ではなく、24時間、365日の日常でのこと。

世界や社会や周りの人たちや自分自身を、
どのような眼差しで見ようとしているのか?
どのように繋がろうとしてるのか?
どのように関わろうとしているのか?
ということに意識的になる。
いつでも探究し続ける。
いつでも実践し続けていく。
という生き方そのもののことだと思う。
武道の道のようなもの。

『日常』の方は、これまでの人生で染み付いている癖というものに、いとも簡単に心と体が持って行かれがちで、とどまろうとすることに胆力がいるなぁと思う。
武道も同じで、いつもの自分の癖が気づかないけど明らかに出る。
しかも、本番にこそ特に出るよね・・・みたいな感じ。

私は『非日常』のワールドワークの場もとても面白くて、刺激的で、たくさんの仲間との出会いもある大切で特別な時間だと思う。

一方で、私が心から惹かれているのは、『日常』のワールドワークという生き方そのものの方。

なんでこんなに惹かれているのだろう?

ワールドワークになんで惹かれるのか?について考えるうちに、なぜか子どもの頃の記憶がびっくりするくらい鮮明によみがえってきた。

不思議な気持ちになったり、あぁ、人生の旅路はあそこから始まっていたのかな?という発見もあったので、そんなことにも触れながら書きつづってみたい。

子どもの頃に感じていた見えない壁と格差

私はある地方に生まれ育った。
自動車メーカーのお膝元だ。

その街に住んでいる人のほとんどがその自動車メーカーや関連会社で働く人たち、というある種不思議な場所だった。

一見、同質性が高いように見えて、実は見えかくれする生活スタイルや生活水準の違いなど線引きしている何かが確実にあった。
誰も大っぴらには口には出さないけど見えない壁があると感じていた。

  • ホワイトワーカーとブルーワーカー。

  • メーカー本体に勤める人と、子会社や孫会社に勤める人。

  • 自然と見えてしまったり、もれ聞こえてしまったりする、役職などの上下関係。

みんな一生懸命働いている一人ひとりのはずなのに壁がある。

なぜ社会にはこんなに壁や不平等があるのに、大人は知らんふりをしているのか?

本当に不思議だった。

さらに、私は小学校への違和感も強かった。
表面上はうまくやっていたし、何か具体的に強い悩みがあったわけではない。
けれど、先生たちの関わり方やあり方、日々の言葉がけや指導の仕方など、私は疑問だらけだった。

  • 一体何のために運動会の行進を何時間も練習するのだろう?

  • 組み体操ってめちゃくちゃ危険なのに、なんでこれやるの?ほんとに怖いし。

  • なぜこんなに大声で怒られなきゃいけないの?そんなに悪いことした?

  • もうこの範囲の勉強は十分わかったのに、なんでみんなと同じ宿題をやらなきゃいけないの?

  • そもそも学校って一体何のためにあるんだろう?

本当に不思議だった。

自分の身の回りのことだけではなく、世界で起きている問題も気になっていた。

ある時、家がなくて路上で生活しなければならない『ストリートチルドレン』と呼ばれる子どもたちが世界にはたくさんいることを知った。
夏休みの自由課題のレポートを熱中して書いた小5の夏。
その日生きていくこと食べていくことも必死で、体をゆっくり安心して休められる家もない子どもたちの存在が、調べれば調べるほどありありと目の前に浮かんでくる。

  • なぜこんなに世界は不公平なのか?

でも、友だちは誰も興味がなさそうだった。なんで興味がないのだろう?本当に不思議だった。

  • 世界ってなんだろう?

  • 社会ってなんだろう?

  • 日本ってなんだろう?

  • 人間ってなんだろう?

  • 私ってなんだろう?

そんなことを考えていた子ども時代。

東京に引っ越してきて、都会のきらびやかさを目の当たりにする一方で、地方よりも都会の方が光と影がくっきりしていたように感じた中学生の私。

  • 道端に唾を吐く人。

  • タバコをポイ捨てする人。

  • 舌打ちをする人。

  • 電車が人身事故だと知って駅員さんを罵倒する人。

  • 痴漢をする人。

どうして世界は、もっと互いを尊重しあえないのか?

一方で、私は常にひなたを歩いていた自覚もあって、そんな私が何を言うんだ、そんな私が何ができるんだという、口をつぐむ感じもあった。

気づくと、日々に追われて、世界の問題と私は遠く遠く離れてしまい、世界のことや社会のことを考えることをしなくなっていた。

もう一度世界への扉が開いた

世界の問題と私の距離を再び縮めてくれたのは、子どもたちの存在だった。

子どもたちからトランスジェンダーだとカミングアウトされたこと、そこから上の子は不登校になったことをきっかけに、世界との関わり方がまたガラッと変わることになった。

世界は優しくしてくれるのか?それとも拒むのか?と不安に思いながら、子どもが新しく入る中学校へ相談に行くなど色々と動くことになった。

優しくしてくれることも、拒まれたことも、嬉しかったことも、傷つくことも、苦しいこともあった。

とにかく、学校という場にただ安心して通いたいだけ、学びたいだけなのに、そう簡単には叶わないことがわかった。

配慮してもらえるのは一定の枠組みからはみ出ないものに限られている。

  • 制服がなければ、

  • 健康診断がなければ、

  • プールの授業がなければ、

  • 男女別に並ぶとかそういう考え方がなければ、

  • 男女別の体育の授業がなければ、

  • 性別でわけるという社会習慣がなければ、

とかとか、そもそも◯◯がなければ、自由になれるのにと、何度そう思ったことか。

いつしか、私が繰り返し繰り返しそんなことを考え、悔しい思いや苦しい思いをするのと同じように、社会では別のことでもたくさん苦しんでいる人もいるんだと、そう思うようになった。

我が子たちのことをきっかけに、世界への扉がまた目の前にやってきてバーン!と大きく開かれたようだった。

トランスジェンダーやセクシュアルマイノリティーのことに限らず、様々な生きづらさを抱える人が世界にはたくさんいることに目が向くようになり、その生きづらさは一体何によってつくられているのか?そんなことを考えるようにもなった。

社会全体がなんとなく決めている価値観があって、その価値観に許容されている場合は生きやすい、その価値観に許容されていない場合は生きにくい。

そんな不条理なことが、こんなにもあるんだとわかった。

そういう誰が決めたのかわからない社会規範のようなものは、嫌だな窮屈だなと心から思う。

なのに、実は、自分自身の中にもその社会規範がこびりついているし、自分もその社会を形づくることに加担している一人であることにも気づく瞬間もあって。

例えば、自分の親(子どもからすると祖父母)には、上の子が不登校であることはずっと言わずにいて、結局最後まで言わなかった。
そうすると、ふとした会話の中で「学校どう?楽しい?」みたいなことを聞かれた時に、子どもに嘘をつかせてしまっているなとか、そういうこととか。
でも、祖父母に言うことで色々言われたり、干渉されたりすると本当にめんどくさいから、絶対に言いたくなかったのだ。

自分の中に相反する自分がいてめちゃくちゃ葛藤する。
これは一体どういうことなんだ・・・?とグルグル頭の中でループする。

子どもの頃からの問いが舞い戻ってくる

グルグルループをする中で、私が子どもの頃に持っていた問いがもう一度、私の目の前に舞い戻ってくる。

  • なぜ社会にはこんなに壁があるのに、大人は知らんふりをしているのか?

  • なぜこんなに社会は不公平なのか?

  • どうして世界は、もっと互いを尊重しあえないのか?

ずっと子どもの頃から私の心の中にあって、消えないこれらの問い。

なかなかに果てしない問いだ。

本当の意味でこれらに向き合おうとすると、その果てしなさに呆然とする自分もいる。

私は投げ出さずに、自分も含めながらどう向き合っていけるのだろうか?と頭を抱えてしまうけど、若い頃の自分のようにまた社会や世界と私の距離を遠くにやってしまう気にはなれない。

向き合っていきたいと決めたから、自分で選んだフィールドと活動があり、懸命に踏ん張って頑張っていることがある。

でも、それだけでは何か足りない感じがする、何か欠けているものがあると漠然と感じていた。

そんな中でワールドワーク2023に参加した。
大きな希望と可能性を感じた。

日常のなかでワールドワークを実践して体現していけば、世界のことを、もっと広く、もっと深く、もっと鮮明に捉えていけて、もっとこの果てしない問いに向き合えるようになるんじゃないか?という希望を感じた。

私がこれまで触れていなかったこと、見えていなかったことにも、勇気や覚悟を持って関わっていけるんじゃないか?

とそんな可能性を感じて、心から惹かれたんじゃないかと思う。

でも、こんなに心惹かれたのか?の本当の理由がわかるのは10年後くらいかもな、とも思う。
(急に手放す感じだけど、きっと壮大な何かの結果なんて、後になってわかることだらけだったり、後になってもわからないことだらけだという気もするから)

それにしても、子どもの頃の私が持っていた問いが、この年齢になって巡り巡って舞い戻ってきて、向き合うことになるなんてとても不思議。
だけど、必然のようにも感じる。

ワールドワークって、いろんな自分を思い出したり、いろんな自分に出会い直していくみたいで本当に面白いなぁ。

そんなワールドワークを体感できる合宿が今年も10月にやってくる。
本当に濃厚な3日間が今から楽しみ過ぎて、ワクワクが止まらない。
2回目のワールドワークに私は何を感じて帰ってくるのかなぁ。

関心ある人は、勇気を出して行ってみるといいよ!
早割は4月末までだそう。

ワールドワーク2024 〜葛藤・対立を変容させていくための対話促進アプローチ〜「ジェンダー・セクシュアリティ」をめぐる様々な声

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