見出し画像

アニー・エルノー『シンプルな情熱』の熱狂と冷静さ

2022年にノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノー。彼女は、自伝的な小説を書くことで知られている。今回紹介する『シンプルな情熱』も、どこまで本当のことかは分からないものの、彼女の体験をベースに書かれているとされている。

前提|あらすじ

『シンプルな情熱』の主人公は、妻のある男性と関係を持っている。激しい恋をする彼女にとって、彼を待つ以外の時間はすべて「逢瀬と逢瀬の間の暇つぶし」でしかない。彼との逢瀬はまるで「麻酔のかかった状態」。しかし、その蜜月も終わりを迎える。その後、彼女はこの恋(情熱)を振りかえり文章をしたためる。そのテキストを、読者が『シンプルな情熱』という本の形で読む構造になっている。

この小説のここがすごい

私がすごいと思ったのは、彼のことしか考えられないような「麻酔のかかった」主人公が、自身を非常に冷静に見つめている点だ。ここに、彼女の自己認識の緻密さが伝わってくる箇所を引用したい。

私はいずれこのテクストをタイプし始め、このテクストは私の目に活字体で立ち現れるだろう。私が無邪気であり得るのは、その時までだ

アニー・エルノー『シンプルな情熱』早川書房、2002年、P99。

今の私は恋の熱狂のなかにあるがそれも今だけのことで、文章が書き上がってしまえばまたまったく違った感情になるだろう。そう彼女は予測するのだ。

この冷静さ。自分自身が今どんな状態で、これからどうなっていくのか。しっかり分かっているのである。

金原ひとみ作品との共通点特徴

この、熱狂の渦中にあっても失われない、自分に対する冷静な視点。私はこれが、ある作家の作品と共通していると感じた。それが金原ひとみである。

彼女の最新作『アンソーシャルディスタンス』に収録されている「Strong Zero」の主人公は、タイトル通りストロングゼロ中毒だ。「シラフでいる時間はほとんどな」い。前述の『シンプルな情熱』の主人公同様、酩酊状態にあるのだ。読み進めると、こんな記述がある。

酒に酔って少しずつあらゆる感覚が麻痺し、理性と冷静さを欠いていく自分を自覚しながら、それでもそれ以外の道を選ぶことはできなかった

金原ひとみ『アンソーシャルディスタンス』新潮社、2023年、P18。

シラフではない(麻酔のかかったような)状態のなかにあって、自分自身を冷静に見つめているのだ。酩酊していても、自分の置かれた状況や、自分がとり得た選択肢も分かっているのである。

むすび

ここまで見てきたように、アニー・エルノー『シンプルな情熱』の主人公と金原ひとみ「Strong Zero」の主人公が兼ね備える熱狂と冷静さ。相反するかに見えるこの二つを同時にやってのける両主人公の「軽さ」と「クレバーさ」が、私は大好きだ。

今回紹介した本

アニー・エルノー『シンプルな情熱』 (ハヤカワepi文庫)

金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』 (新潮文庫 か 54-5)

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,831件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?