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付箋を使って、本の「無限増殖」を防ぐコツ

本棚のスペースは有限です。本読みとしては「これまでに出会ったすべての本を残したい!」と願うところですが、残念ながらそれは難しいでしょう。

有名な思想家みたいに本であふれた部屋は確かにカッコイイですが、地震大国ニッポンでそれをやると字義通り「本に埋もれて死ぬ」危険性があります。私一人ならそれでもいいんですけど、家族にもそれを強いるのはちょっと良くないですね。

というわけで、今回は自分なりの「残すべき本/手放しても良い本」の基準を整理してみたいと思います。

(当たり前ですが、「だからあなたもこうしろ」と言うつもりはありません。「フーン、こういう人もいるんだ」くらいで受け止めてください。)


本はかさばる、重い、危ない

かくいう私はもともと「本を捨てられない人」でした。実家の部屋は本棚だらけで、いろいろな本が所狭しと並んでいたのですが、いよいよ整理しきれなくなって、ある年、マンガを中心に思い切って整理してみました。

するとどうでしょう。スペースが空いたことで、読書への意欲がむしろパワーアップしたのです。整理をしながら「ワ〜こんな本あったな」とかいって、昔買った本との“再会”もできました。

とはいえ、この時点でもまだ部屋は本だらけ。根本的に状況が変わったのは、そう、引っ越しです。

このnoteでも書いた通り、あるとき私は4年間で5回も引っ越しました。

それで分かったのですが、純粋な紙束たる本はマジで重いです。とくに引っ越し慣れしていなかった頃は、服と同じ大きさの段ボールに本をギチギチに詰め込んでしまい、ちょっとした凶器でした。ほんと、腰を痛めなかったのが奇跡です。

しかも、当時の私にはお金がなく、引っ越し業者に依頼する資力がありませんでした。(今はなくなってしまいましたが、)宅配業者の「引っ越し便」という、宅急便に毛が生えたようなサービスを使っていたのです。

このサービスでは1箱ごとにお金がかかるので、箱はなるべく少ないほうがいい。でも、大きな箱に本を詰めると大変なことになってしまう。

じゃあ、もう本を減らすしかない。

本を手放し始めたのは、確かこういうロジックだったように思います。そして、このときの仕分けメソッドが割とうまくいったため、今も自宅の本は一定量を保てるようになりました。(いわゆる動的平衡状態です。)

コツは簡単、「付箋を貼りながら読む」だけ

では、どうやって残すべき本/手放しても良い本を見分けているのか?

コツは簡単、「『へえ〜!』と思った場所に付箋を貼りながら読む」だけです。

「へえ〜!」の基準は何でもかまいません。

学術書なら「この部分は議論の余地あり」「共感!」「この関連文献は読むべき」とかそんな感じ。
小説なら「この表現カッコい〜」とかでしょうか。もう、本当になんでもいいです。

自分の琴線に触れてきたところにどんどん付箋を貼りながら読みます。そのまま通読するとどうなるか……

こうなります。

一方で、「最後まで読んだけれど、正直なところピンと来なかった」本はというと、

こうなります。

そう、付箋を貼りながら読むことで、その本がどれくらい自分の関心をそそったかを可視化できるわけです。さらに言えば、論文に使いたいときも付箋のところを辿ればよいので効率的です。

(マメな人なら、「へえ〜!」はピンク、論文に使いたい部分はイエロー、とか付箋を分けてもいいかもしれません。私はズボラなのでやりませんが。)

さて、こんな風に本を読むようにすると、手放すべき本も一目瞭然になります。つまり、「通読したけど1枚も付箋が貼られなかった」本は、特別な理由がない限り手放してもOKと判断できます。

注1:

再度アナウンスしますが、これはあくまでも私の基準であって、「本を手放したくない理由」は愛書家の数だけあるはずです。このnoteは個人的な備忘録であり、誰にも強制するものではありません。

注2:

さらに言えば、「たとえそのときは関心を持っていなくても、あとになって必要になるかも」という可能性はもちろんあります。事実私もそういう出会いに何度も助けられてきました。とくに最近は、紙の本はなかなか再販されないのでリスクが高いですよね。

ただ、それを承知の上で、「このままだといつか地震コンボで死ぬぞ」と思ったためにこういう断捨離をしています。(事実、私の指導教員の自宅の本棚は地震で倒壊していました。)

注3:

さらにさらに言えば、人や図書館から借りた本に付箋を貼るのはやめましょう。付箋の糊(のり)はページを傷めるからです。私は、付箋を貼った本=私の本として所有し続けるつもりだからこそ、この方法をとっています。

頭も部屋もスッキリさせて、常に余白を残そう

本棚を整理するメリットはまだあります。それは、本をカジュアルに手に入れやすくなることです。

人間、すでにパンッパンに何かが詰まっていると、新しいものを入れるのがおっくうになってしまいます。

服にしたってそうですよね。

「この服、買ったけど1回しか着ていない。高かったし、まだ着られるはずだから取っておこうかな……」

という判断を重ねていると、

「うーん、もういっぱい服があるのに、新しい服を買うのももったいないかな……」

みたいな。それで毎年、ビミョーに気に入ってない服ばかりが詰まったクローゼットを眺めて、深いため息、みたいな。これって、クリエイティビティから程遠い状況だと思うんですよ。

そこで(メルカリなどを使って)断捨離すると、「わあ、次はどういう服を買おうかなあ」という気になってきます。「これを機に、服の系統をチェンジしてみようかな」みたいなチャレンジ精神も湧いてきます。

これと同じことが本にも言えるはず。

「ハマらなければ、メルカリで売ればいいや」と思えるようになると、買うのをためらわなくなる。常にチャレンジ精神を保てるから、新しい本とも出会いやすくなるんです。

事実、私は、友達からすすめられた本はとくに中身を吟味せず買っています。「読んだけど、私向きじゃないや」って伝えることもありますが、ためらわずにチャレンジできるのは本棚の整理を覚えたからです。

というわけで本日も掃除をし、ずいぶん本棚をスッキリさせました。次はどんな本と出会えるのか、今から楽しみです。

【こぼれ話】個人的に大好きな本

※わりとうろ覚えで書いているところがあります。個人的なnoteなので許してください。

菅原 和孝「フィールドワークへの挑戦―“実践”人類学入門」(世界思想社)

仕事・社会・コミュニケーション・宗教・異文化の5ジャンルを網羅し、40人の初々しいフィールドワークを一挙公開。技術的なノウハウから理論的な設問まで、実践的な助言を満載。フィールドワーカーのセンスを体得できる最良の指南書。

Amazonページより

「学生のレポートを添削する」形式でフィールドワークの事例と助言をまとめた本。霊長類研究の方法論を銭湯での女性のふるまいに援用して記述した精緻なレポートがあるかと思えば、「カルトに潜入したいっす」みたいな学生に「やめとけ」と諭すシーンがあるなど、フィールドワークのエスプリを肩肘張らずに吸収できる良著。また読み返そうかな。

鷲田 清一「京都の平熱――哲学者の都市案内」(講談社)

古い寺社は多いが歴史意識は薄く、技巧・虚構に親しむ。けったいなもんオモロイもんを好み、町々に三奇人がいる。「あっち」の世界への孔がいっぱいの「きょうと」のからくり―。聖・性・学・遊が入れ子になり都市の記憶を溜めこんだ路線、京都市バス206番に乗った哲学者の温かな視線は生まれ育った街の陰と襞を追い、「平熱の京都」を描き出す。

Amazonページより

一時期、狂ったように鷲田の本を読みまくってました。かぶれた学生でしたので。

かぶれはおさまってきたものの、今でもやっぱり鷲田の本は好きです。影響されて都市論の本を読み漁ったり、服飾の歴史を調べたりしました。

たとえば、「どこまでが身体か」って、明確に答えがあるようでいて、考えてみると深いですよね。不審者に体を触られるのはもちろんイヤだけど、(狭義の「身体」ではないはずの)服とか持ち物を触られるのもヤダな、じゃあこれってメタフォリカルに身体と呼べるんじゃないの、とか。

鷲田の本はこういう思考実験のヒントにあふれていて、定期的に浸かりたくなります。あと、鷲田を読んでると西田幾多郎や九鬼周造にも触れたくなります。

とっても嬉しいです。サン宝石で豪遊します。