実感と痛感

 時計の針が17時15分を指した。18時に定時を迎えても残業がスタンダードなこの職場。人が退職するとなると、上長の一言で手が止まる。
 「えー、皆さん、遠くの島にいる方もこちらに寄ってください。本日付けで朝倉君が退職します」
 朝倉。僕より3年先輩の名字だ。今日が年度末で、おそらくは1年で最も退職者が多い日であろう。所長から朝倉先輩への感謝の言葉に頷き、スピーチを委ねられた。

 「皆さま、お忙しいところお集まりいただきありがとうございます。新卒入社してからおよそ5年間、この営業所にてお世話になりました。当初は周囲に迷惑をかけることがしばしばありましたが、皆さまの手厚いサポートを賜り、一人立ちしてお客様にとって利となる提案をできたと自負しています。職務範囲も拡大し、三年目からは後輩の教育を担当するようになる中で一方的に教授するのではなく、刺激を受けて新しい視点からお客様に向き合うきっかけとなりました」

 そして僕に視線を向ける。一瞬、目を閉じて再度開く。続く口上を経て、スピーチが完了すると拍手が鳴り響く。所長がギフトを朝倉先輩に渡したところで、次に僕が花束を抱えて渡す。

 「こういうの、普通女の子が定石なのにな」
 「今からエモいこと言うので黙ってください」
 「いいよ、そういうの。退職しても会うんだから。飲み屋か野球場で聞くよ」
 「じゃあシーズン始まったらよろしくお願いします」

 営業は引き出しが多くて損はしないからと、プロ野球観戦に誘われてから公私問わずお世話になった。野球の面白さも、スクイズやタッチアップの意味も知らなかった。懇意丁寧に説明する先輩の少年のような表情が今も記憶している。

 「今度、新人が入ってくるんだ。ちゃんと面倒みてやれよ」
 「うす」

 先輩が職場を去ってから、引き継ぎと新人の教育と既存業務に追われながら、1ヶ月はあっという間に過ぎた。5月の試合を先輩と観戦する約束を取り付けてから臨む4月の最終出社日。自分でもなぜか分からないが先輩のメールアドレスをチャットアプリでメンションしようとした。表示されることはない事実に直面し、手を頭上に伸ばした。実感という言葉がこれほどまでに直撃するのはそうそうないだろう。間を置いて、隣の新人に声をかける。

 「今度さ、野球観戦しようと思うんだけど。一緒にどう?」
 「いいっすね。どこっすか?」
 「どこって?」
 「球場、言ってしまえばどこのチームを観るんすか?」
 ああ、営業活動をする中でそれなりに既視感のあるやりとりだ。球団名を答えると、目を輝かせた。
 「先輩、分かってるっすね。俺も好きなんすよ。小学生の頃から好きな球団だから嬉しいっす」
 嗚呼、少しでもボロ出したらまずいやつだ。2年程度の知識で渡り合えるだろうか。先輩やるのも楽じゃないなと痛感した。

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