彼が眠る頃

顔を上げるとPC画面から求職者の顔が消えた。オンライン面接が主流となって求職者は自宅から面接に臨む一方、面接官の僕は変わらずオフィスから向き合う。

世界が変わる前と働き方に差異が生じない苛立ちごと、オフィスビルと最寄り駅の間に位置する喫煙所にて燻らせた。

星が見えない街のホームは数分間隔で電車が訪れる。乗り込み揺られて1度駅を経由する。地方へ続く路線は途中から席が空き、座り込むと静かに眠りにつく。束の間の仮眠は以前なら叶わない出来事だ。

最寄り駅が近づくと目が覚める。向かいの窓にくたびれた自分が映る。10代の頃、なりたいと願った自分とは遠いことに薄ら笑い。

しかし、さほど大人になった自分が嫌いではないと自分に言い聞かせる。

未成年を生きていた時分には想定できない幸せが両の掌にくるまる。腕時計の針が22時を指すと同時に最寄り駅を降りて並木道を歩く。星彩がいつもの夜道を飾り、マンションのドアの鍵を開ける。

「ただいま。」
「おかえり。今日もお勤めお疲れ様。」

僕の声に返事をした妻のそれが玄関まで響く。ネクタイを緩めながらリビングに立ち入る。

「今日も面接が立て込んでいた?」
「うん。人事部は出世コースだからって。乗せられたら残業が常態化だよ。迷惑をかけて」

言い切る手前、遮るように言葉が返ってくる。

「私は大丈夫だよ。大翔も3歳になって昔よりは世話がかからないから。ヤンチャっぷりには世話が焼けるけど。」
「はは。僕じゃなくて美紅に似たのかな。」
「そこはヤンチャっぷりをアピールするのが男の矜持じゃなくて?」
「どうだろ。大翔のことを考えるとさ、これまでこだわっていた諸々の優先順位が下がるよ。美紅も煙草を吸わなくなったじゃないか。」

当然だと言いたげに、鼻で笑う。昔から笑った時のエクボが変わらない。大翔は笑みも彼女に似ている。

「忘れてた、手洗いうがいしてくるよ。」
「ほい。」

使い捨てマスクをゴミ箱に捨てて、洗面所の蛇口を捻り、入念に手洗いうがいをする。守る命があるということが危機意識をより強く持たせた。

「もう、自分一人の命じゃないんだな。」

何気なく呟いた言葉が鏡から反射して跳ね返る。言葉が光だと仮定して、吐いた言葉の輝きを失せてはならぬよう、父親としての覚悟と自覚を強く持ち続けたい。リビングに戻ると、美紅が缶ビールのプルタブを開けたところだ。

「改めておかえり。烏龍茶飲む?それともなっちんジュース?ご飯は生姜焼きを温めようか。」
「なっちんジュース飲むよ。このラップされてるのね、温めるよ。」

電子レンジにお皿を入れて、報せの音が鳴って取り出す。僕は専用のペンギン柄のコップにジュースを注ぎ込み、美紅が右手に持つ缶ビールと軽くタッチした。

「蒼っち、かんぱーい。」
「乾杯。」

蒼馬という名前から由来し、蒼っちという呼称らしい。呼ぶのは妻だけだ。下戸の僕になっちんジュースは美味しい飲み物の一つで、美紅にとってお酒は不可欠なものらしい。

「仕事終わりのなっちんジュースは最高だな。」
「そうね。お酒も美味しいんだけど。」
「らしいね。この何気ないやりとりも今日で108回目だ。」
「数えてたの。」
「うーん、多分。あ、豚肉美味しい。」
「ありがと。」

美紅も週四回は9時から15時のパート勤務し、保育園へ大翔の迎えに行き、買い物をして調理に臨むというスケジュールで疲れたそぶりをさほど見せない。

1人暮らしの頃は週一、二回調理したら自分を褒めていた立場として恐縮そのものだ。

「大翔さ、21時には寝るじゃん。だから明日は早く帰ってくるか私に聞くの。時々妬けてきちゃう。」
「大翔が僕のこと好きだから?」

尋ねるとこくり首を縦に振る。可笑しくて右手で口を押さえながら笑う。

「そんな妬くこともないだろうに。変わった感性は昔からだな。」
「笑い事じゃないでしょ。パパの好感度がやけに高くって、私の好感度はどうなのって話なの。」
「どうなのって、どういうニュアンスなの?」
「ママが平日、大翔の世話をしているのに。パパは最近、土日に大翔と遊んでるだけで好感度高いじゃん。なんか、理不尽だよ。」
「それは、ぐうの音もでない。男の子にとって父親はなんだかんだ楽しい存在なんだよな。僕もまあ、その感覚は分かるよ。かつては少年だったし。」
「もうちょっとさ、ママだって褒められたいの。分かってる?」
「分かってるよ。ママがお仕事も家事もしてくれて、こんな素晴らしいパートナーが隣にいて、もう感謝の気持ちでいっぱいだよ。」

酒が入ったことで声が時々掠れている。すぐにお酒の効果が及ぶかと訝しげに考えていたら、部屋の隅に缶ビールが丁寧に整列していた。

「それとさ、大翔の話になると私たち、自然とパパママ呼びになるじゃん。別に二人だけなんだから、呼び方はそのままで良いのに。」
「そだね、美紅。」

僕が下の名前で呼ぶと同時に、表情が切り替わった。無邪気に見えてそこそこの邪気が含まれたような笑みだ。

「大翔にはさ、ちゃんとママの偉大さも伝えとくから。土日遊ぶ時に。」
「ありがと。」

キャベツと豚肉を程よい塩梅で交互に口に運び、ゆっくりと咀嚼する。この空間が家庭だと強く実感する。

「なんだか親になった今、自分の親の気持ちが分かってくる。自分語りしていい?」
「蒼っちの自分語り、ぃーねー。聞くよ。」
「呂律回ってないじゃん。」

ペンギン柄のコップをテーブルに置いて上機嫌な彼女をじっと見つめる。

「親は子の幸せを願うのと同時に、子が不幸にならないように願うみたいだ。当たり前かもしれないけど、ようやく分かってきたよ。」
「不幸にならないようにね。当然と言えば当然だけど。」
「その当然が上手く咀嚼できなかった頃があったから。こうも言語化しちゃんだ。」
「うーん、なんだか分かる気がする。どうしてお父さんもお母さんも私を尊重してくれないのって。そう思ったことが何度あったことか分からないね。」

美紅は一呼吸おいて右手の缶ビールをそっと、テーブルの端に置く。前髪を軽く触れ、視線を右に向けてから僕を直視する。

「当然だけど親の方が人生経験あるんだよね。親の経験則からお節介を焼きたくなるだろうね。私も大翔が成長していく度、不幸にならないようにテンプレみたいなアドバイスしそうだな。」

急に酒が抜けたように真摯な顔して語る。緩急の差に戸惑うのは昔から慣れているし、彼女の声に応えられる夫でありたいと改めて思う。

「共感できる部分を見つけてくれたんだ、サンキュ。」
「ふへへ。」
「大翔を守ることは前提として僕らも将来、一度くらいは嫌われるんだろうな。」
「その時は分からないなりに、きちんと向き合うよ。母として。」

彼女は缶ビールの近くに置いてある、シロクマのコップから水を口に注いだ。サーフボードを抱えたシロクマの目がやけに愛嬌あって、意識が一瞬クマに向かい、美紅の声が届いて視線を戻す。

「大きくなる我が子と向き合うのには気力、体力がかなり要しそうだけどね」

茶目っ気に笑い、目元にかかる前髪をのけて笑い飛ばす。
「パパもしっかりしてよ。」
「ああ。そこは期待してよ。」
「本当に期待して良いのかな。」
「僕の取扱説明書には期待してくれるだけ相応の結果を残すと書いてあるから。」
「じゃあ、期待してるね。蒼っち。」

美紅はテーブルに置いてある自分のお皿とコップをキッチンに運び、スポンジで洗い落としタオルで拭き取る。動作一つとっても性格が出るとつくづく考えさせられる。僕は大体大雑把な洗い方だからそろそろ改善すべきだと内省した。

「じゃあ、私先に寝室にいるから、」
「ああ、うん。僕もシャワー浴びてくるよ。ご馳走さま。」

美紅が去ってから部屋の明かりを常夜灯に切り替えて、軽く吐息を吐く。先ほどまで流れていたTVドラマからニュース番組に変える。5分ほど眺めてからOFFにした。

「さて、と」

隣接した部屋のクローゼットを開けてパジャマを取り出し、浴室へ向かう。お湯の温度を1℃上げ、シャワーの雨に打たれては、ゆっくりと目を閉じる。

#小説 #ショートショート #創作 #家族

ご高覧いただきありがとうございます✨また遊びにきてください(*´∀`*)