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チベット短歌記〜河口慧海の歌を読む:2

明治時代、仏教原典を求め単身でチベットへ潜入した僧侶、河口慧海。その旅が記された「チベット旅行記」の中で詠まれた歌を鑑賞するこころみ、第2回です。
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今回はコルカタ(原文ではカルカッタ)上陸からネパールへ発つまでの道々、ダージリン滞在期間含め一年近くの中で詠まれた3首です。
慧海はコルカタの摩訶菩提會(インドの仏教団体)でチャンドラ・ボース氏の紹介により、チベットで修学したというラサット・チャンドラ・ダースを訪ねダージリンへと赴きます。
え?まさかチャンドラ・ボース??あの独立運動家の?と一瞬思いましたが、「あの」チャンドラ・ボースが生まれたのが1897年つまり明治30年なので別人ですね。そんなに珍しい名前じゃないんですねきっと。
でもちょうど明治30年、慧海がインドに上陸した年に生まれているんですね、へえ。
さてそんなわけでコルカタより汽車に乗り一路北へと向かう、その中で読まれた一首から。

3)
御仏(みほとけ)のひかり隠れし闇ながら
  猶(なほ)てりませと飛ぶほたるかな

河口慧海「チベット旅行記」より※「隠れし」は底本では「穏れし」

はい、コルカタよりダージリンへ汽車で移動する中で詠まれた歌です。月が沈んだのち大きな蛍がたくさん飛んでいたと慧海は書いています。一説では仏の使いとして蛍が月から降りてくるとも聞きますが、それを詠んだのか、あるいは仏陀入滅の地クシナガルに比較的近いところを通るので(と言っても東京大阪間くらいあるけど)感に入ったのかもしれません。いずれにせよ今目に見えている自然景の美しさと宗教者としての敬虔さ、仏陀の昔を偲ぶおおきな時間軸など、素朴ですが素敵な歌だな、と思いました。

では次の歌です。

4)
ヒマラヤに匂ふ初日の影見れば
   御国の旗の光とぞ思ふ

河口慧海「チベット旅行記」より

ダージリンに滞在しての明けて明治31年元日、『天皇皇后両陛下及び皇太子殿下の万歳を祝するため読経致しそれから一首の歌を詠みました』と原文にあります。
慧海のような自在に旅する人でも国家から自由になれなかったんだな、というのが現代の感覚だと思います。
他国の明媚な風景を前にしてもそこに日本、もっと言えば天皇という存在を見出すナショナリズムを明治の限界というのは容易いけれど、国家と個人との関係が立ち現れてまだ30年という当時を考えると、正直良くやっていたな日本、と一方で思えたりもするわけで、ちょっと複雑な気持ちになる歌でした。

さて次はいよいよダージリンを発ち、チベットを目指しまずはネパールへ向かう旅立ちの歌です。

5)
いざ行かんヒマラヤの雪ふみわけて
  法(のり)の道とく国のボーダに

河口慧海「チベット旅行記」より
※慧海によるとボーダとはサンスクリット語でチベットの国の名との由し

ってなんでしょう、大昔の軍歌みたいな、大上段に振りかぶった俗な趣がある。ヒマラヤの雪と書きつつも、この時点では厳しいヒマラヤの猛威をまったく体験していないので解像度が甘いのは否めず、概念相手にシャドーボクシングをかますようなイキった前のめり感が、この歌を通俗的なロマンチズムにまみれた昔の軍歌っぽくさせているんだと思います。
こうした世界観が持つ無邪気な勇壮は歌としてちっとも面白くないけれど、でも当時の日本を覆っていた空気の一端が見える気もします。ひょっとしたら、当時旅行記を連載していた新聞というメディアからの要請も、あるいは意識していたかもしれません。

ところでサンスクリット語のボーダが英語のBorderとのダブルミーニングのリリックだったらRAPっぽくていいな、ってちょっと思いました。No Border、法力の前に境界はない、実に慧海らしいと思いますね。


はい、という3首でしたがさて、
実際の旅の中に入ってきた慧海の歌で、この人の個性が少し見えてきた気がする。むろん明治という時代がそうさせるのでしょうが、めちゃくちゃ敬虔で真面目なのだけど、誠実ゆえに時代や国を疑わずに受け入れてしまう世間並の感性は、超然とした聖人的態度の一方で人間くさくもありました。
慧海の持つこの「聖かつ俗」は先々で彼の旅を助けてもいきます。聖性一本槍だと詰んでしまう場面でも臨機応変に対応していくのはいかにも現実主義者ですが、そこに意固地な通俗さも内包しているゴッタ煮感が今見ると面白く、また魅力的でもあるんですよね。

そう考えるほど、やはり近代文学の中の人ではちっともなく、同時代の歌人に比べほとばしる素人感といい、反して超絶的行動力といい、人間として謎のオリジナリティが強すぎてクラクラする。
そんな感じでまだまだ旅は序盤、ネパールにすら辿り着いてない!
次はどんな歌が出てくるのやら。


チベット旅行記はパブリックドメインなので青空文庫で読めます。Kindleでも0円!

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