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50首連作「コロコロ」の感想

SNSで交流のある野良之コウモリさんの連作ネプリ「コロコロ」の感想を書きます。ゴールデンウィークのお供にと出したネプリなのですが少し時間が経ってしまいました(すみません)。noteでも公開されていますので未読の方はぜひ。

ご本人のnoteにもあるように笹井宏之賞へ応募した50首連作だそうです。
いったいにこの「50」という物量は驚異です。私にとって連作は、5首10首程度で「らしき」ものを編むのがせいぜいですので、50首を編んで賞に応募される時点でもう大河ドラマのような圧力です。なので読むのも気合がいりますね、よし!

と、そのように50連作というボリュームに怯みはしますが、一読、全体の構造はシンプルにも感じました。1首めの

1.足元の石を蹴ったら転がって意味が出ちゃった見なきゃよかった

五十首連作「コロコロ」より

から始まり50首目の

50.足元の石に気づかず躓いてまた意味が出るこころころころ

五十首連作「コロコロ」より

までの間にある、とある中年男の日々の独白のようです。自分の蹴った石に自分が躓く滑稽さに主体の人生観、すなわち意味が出現しているのでしょうか、時間的なスケールで言えばほんの短い瞬間のことのようにも思えます。

1首めから始まり50首めで回収される「意味」とは、本来意味などなかった出来事たちに意味を見出してしまった、その契機なのかあるいは、本来意味があったにもかかわらず、目を逸らしていた自分に気づいてしまったのかもしれない。

とはいえ1と50の間にある48首は、どこか情けなさげな中年男の日々の徒然のようで、一見すると「実は意味があったのだが」的な深刻さはあまり感じません。というか軽薄でさえあるのですが、その軽薄で偽悪的な表層に、なればこそ意味を見出してしまうのがこの50連作の仕掛けと言えそうです。

その仕掛けのひとつがメタ目線なのかもしれない。例えば8、22、41です。

8.「見ているか?これをよんでるお前だよ。カッコをつけてばっかりだよな。」
22.「言っちゃうの?これをよんでるお前だよ。どうせなんにも分からないだろ。」
41.「聞いとけよ!これをよんでるお前だよ。カッコをつけて生きていこうや。」

五十首連作「コロコロ」より

不意に、読んでいたはずが読まれているかのような問いが襲ってくる。あたかもニーチェの深淵みたいに、安全地帯にいる読者を引きずり下ろしにくるわけですよ、これは焦ります。
主体は明確に「読まれている」ことを意識している、いわば信頼できない語り手なので、それがフィクションの中であっても物語内事実を揺さぶりにくるわけです。批評や自由な読みを拒絶するかのような挑発的な姿勢で。

とは言えそんな姿勢も偽悪的なもので、41においては読者との和解が試みられています。とっぽい反面ちょっといい人、というほっこりが用意されているのは、わたし的には好もしいです。

文学として見るならばあるいは、しっかり読者を放り投げ、投げっぱなしジャーマンのごとく突き放すなら突き放した方が心を掻き乱されるのかもしれません。が、偽悪を回収したことで、主体のリアルをもろに感じたのも確かです。ま、あれだ、あんときは言っちゃったけどさ、ほれ飲もうぜ、みたいな。
これはちょっと、愛さざるを得ない。

このメタ目線は「神と蟻」のモチーフにもあらわれていて、後述する「出口」とともに主体の世界認識を示唆しているようにも思えます。いわば主体の生きている世界はより大きな世界のひとつのレイヤーである、という自認です。であればこそ、偽悪者として演じる俺という役割に躊躇いがないのでしょう。

さてさて、50連作といえども短歌のフォーマットは1首31文字です。むろん「コロコロ」もやはり1首として起立しようとする力が散りばめられていて、心を刺しにくるので何首か引きますね。

9.お風呂場で「とうさんおしっこ」偉そうに「いいよやれよ」とこっそり俺も

五十首連作「コロコロ」より

常識の破壊者としての主体の姿勢が垣間見える1首です。社会通念に疑義を呈し、破る。までは普通ですが、その快楽を隠さない所がいいな、と思います。

16.求めてる物が何かがわからずにドンキホーテで選んだ無闇

五十首連作「コロコロ」より

ドンキホーテで選んだ無闇、の下句が秀逸です。軽薄さの後ろにある冷えた爆弾みたいなイマという時代、あるいは俺をチラ見させる、その装置としてのドンキは、けだしその通りと膝を百回くらい叩きました。

17.二軒目のナフコで計画的に買うバールのようなものを探して

五十首連作「コロコロ」より

ドンキの歌もですが、地方の商業施設名がどっかり出ていて、ロードサイド的風景の中に破壊の目論見が見え隠れしているようです。「バールのようなもの」は破壊の象徴と見えますが、このニュース用語の選択で、自分の心に対する冷めた他者性と、また計画的でありながら二軒目であり未だ探している姿に、どこかアンビバレントな心情が表れているように思えます。

23.電線は夜とは同化せずにいて月に引かれたアンダーライン

五十首連作「コロコロ」より

突如的にこのようなビビッドに詩的なものを放り込んでくるのでまったく油断がなりません。月を見上げた主体はおそらくひとり、電線は主体の、月は主体が求める何かあるいは誰かの象徴と読めます。夜と同化できない(一緒になれない、手に入らない)主体はただそれを際立たせるだけの存在に過ぎないという諦めのかっこ悪さが美しいです。RCサクセションの歌詞みたいです。

34.幸運だ!!持病は糖尿しかないし死んだツレとかまだ一人だし

五十首連作「コロコロ」より

ツレ、は配偶者と読みました。となると主体は現在男やもめということになる。だから「まだ一人」には未来と、同時に再び悲劇に向かう確信的な予感があって、それを糖尿と同列に「幸運」と叫ぶこの悪さ加減に過去への愛情が滲み出て味わいがあります。

40.つたわった体温ですら感じたと考え文字になるつまらなさ

五十首連作「コロコロ」より

文章を書く者への若干、挑発を感じます。思い出すのは枡野浩一さんの「かなしみはだれのものでもありがちでありふれていておもしろくない」です。意識されていたのかもしれません。あけすけに内臓を突いてくるし、それが真であることはみんな知っている。言うなよ、それを。でも言ってしまうところに詩があるのです。そんな矛盾をむき身で投げられた。うおう!


さてそのほか、ちょっと性的なイメージが埋め込まれた歌がいくつかありました。私の深読みかもしれませんが、そこにあるのはプラトニックとは程遠い、同時にエロティックな官能性からも遠い、あけすけな性癖と、自分の性さえもどこか俯瞰して見ている冷たさなんですよね。

7.おかえりと口では言ってみるけれど手垢まみれのいのちの出口

19.バービーを全部脱がして舐めていたなぜあんなことしてたのだろう

42.出口からニュルっと入れて美しいひだの裏まで見るコンテスト

46.産声を集めたミックステープとか逆再生で聴けば夕暮れ

五十首連作「コロコロ」より

出口、という言葉の選択から、女性器から出現した自分という存在をどこか意識しており、46で示唆されているようにそこへの回帰として性交を捉えているフシがあります。自身が生まれ落ちたこの世界から胎内へもどるかのような思いは、現実に対する(やや冷笑的な)あきらめと擬似的な逃避のようでもあり、ごく個人的な営為だからこそ、私小説めいた切なさを感じます。

はい、そのようなわけで!
現在この世界に対する不一致とあきらめ、だからこそ舞台として自分という存在を演じ切ろうと、そんな思いを私は読みました。
そしてその歩く姿はけっこう、かっこ悪いです。
カッコをつけて生きていこうや、と問いかける主体に対して非常に申し訳ないのですが、かっこ悪さを隠さないかっこよさ、と言えば許してくれましょうか。

石を蹴ったり、躓いたりしながら歩くその姿。
よれた腰穿きジーンズのポッケに両手を入れて、ちょっと猫背の背中にはタイガー&ドラゴン的なダサいスカジャンに微妙な刺繍があってほしい。もさもさの髪を後ろで適当に束ねていてほしい。痛くてひとつしか開けられなかった片ピアスとかあってほしい。高校時代の地元仲間がやってる店のツケをどう工面するかとか悩んでいてほしい。ローリング・ストーンズの来日公演(98年大阪ドーム)に行った自慢話とかしてほしい。

ええもう妄想です。コロコロという擬音にあらわれているように、ライク・ア・ローリングストーンな人生後半を諦めつつどこかで楽しんでもいるスモーキーな背中…。そんな、やや類型的な非実在おじさん像がですね、けっこう好物なんです。私は。
あ、もちろん作者のパーソナリティーではなくこの連作の主体氏への妄想です!

妄想で歌の解像度が上がる。
1首の起立とか言いながら、でも文脈の持つ力で短歌は情報量を増やせるんだな、という気づきもあったコロコロでした。身勝手な読みですが。
その意味では私も連作にチャレンジしてみようかな、なんて思ったり。
コロコロ、楽しく読めました。
ありがとうございました!

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