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チベット短歌記〜河口慧海の歌を読む:1

明治時代、仏教原典を求め単身でチベットへ潜入した僧侶、河口慧海。その旅が記された「チベット旅行記」の中で詠まれた歌を鑑賞するこころみ、第1回です。
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最初は慧海が入蔵を決意し、実際に旅立っていくところで詠まれた2首を紹介します。チベット旅行記でも最初期に出てくる歌ですね。

当時チベットは厳重な鎖国体制を敷いており容易には近づけない国でした。地理的にも北は高原の無人地帯がひたすら続き、南はヒマラヤ山脈により隔絶された状態。政治的にも地勢的にも、外部からの干渉が非常に難しい場所でした。そこへ仏教の原典を求めて行こうという次第で、冒険が目的ではなくただ真理を求めたい、その衝動のみで日本での地位を捨てて出かけるわけです。

この無欲さ、いや視点を変えればめっちゃ欲求の塊とも言えるのですが、ともあれ信じるものへの誠実さが慧海を旅へと駆り立てたのでした。
むろん誰もが止めます。今よりもきっと多くの人生がリスキーだったであろう明治30年にしても無謀極まる計画ですが、慧海は決然と、行くと決めたら行くのでした。
そんな時の歌です。ではさっそく見てみようか!

1)
久方(ひさかた)の月のかつらのをりを得て
帰りやすらん天津日国(あまつひくに)に

河口慧海「チベット旅行記」より

すでに日本で仏道を成しているのになんでまた乞食同然命懸けのヤバい旅をするのか、出発を前に友人知人らから旅を止められる慧海。でも決めてしまった以上後には引かず、死ぬかもしれんぞの言葉にも本望なりとマッチョに返す慧海の、旅立ちを前にした心情が込められた歌です。融通無下に見えつつまぁ相当に頑固な人だったんだろうな…。

これは古今和歌集より壬生忠岑の「久方の月の桂も秋はなほ紅葉すればや照りまさるらむ」のオマージュでしょうか。「をり」は動詞ではなく名詞として使われているので意味的には「時」とか「時期」みたいなニュアンスと思います。久方、は月の枕詞で天津日国、は日本のことでしょうから、どんなに時が経っても帰ってくるという意気込みのように読めましょうか。
月の桂、には月に生えるという巨樹伝説から、死と再生、みたいな意味もあると言います。確かにちょっと大袈裟な、言ったら大上段な感じはします。
しかし何があるかわからない旅。友人知人たちが一斉に止めに来る上、自らも「仏道のためなら死んで本望」などと言い放っているその一方で、たとえ死んでも、輪廻の中で必ず帰ってくるぜ、みたいな決意があったんでしょうね。

では二首め、まいります!

2)
御仏のみくににむかふ舟のうへのり得る人の喜べるかな

河口慧海「チベット旅行記」より

インドへ向かう船上で詠まれた一首です。出発に先立ち慧海は仏典の原語であるパーリ語を修めるため、スリランカ帰りの僧、釈興然のもとで勉強をしていたのですが果たして彼は上座部仏教(原文では小乗仏教)の人でした。一方慧海はバリバリの大乗仏教者なので水が合うはずがない。おそらくは上座部を奉ずる興然との決裂を経て(この下りはまじで子供の喧嘩じみていて面白かった)、あくまで大乗の教えを恃む気持ちも入っていたかと思います。

船の乗組員たちに盛んに説法をして喜ばれたと嬉しそうに書いてもいるので、インドへ向かう船を大乗の乗り物と捉えて、興然への半ば当てつけのように詠んだといえば深読みしすぎでしょうか。
でもそう読めてしまうような、ちょっと俗なところというか存外に執念深いというか、仏道を極めようとしつつ一方で意固地な人間らしさにどこか茶目っ気のようなものを感じる人でもあり、まぁ、ありそうだよな…、とそう考えた方が愉快に思えます。
船員たちへの説法を経て衆生を導いていく自負と、純粋に喜んでくれた嬉しさ、そして「大きな乗り物」に乗って仏の国へいくのだぜ!の気負いとがないまぜになり、上座部仏教への当てつけもトッピングした、なかなかな人間味にどこか可愛いらしさをも感じる歌に読めました。



はい、そのようなわけで改めて読んでいくととても面白い。
歌はもちろん記録としても愉快で、この歌が詠まれているセクションでは、特にパーリ語師匠、釈興然とのやりとりがめちゃくちゃ面白かったです。思想的に逆を行く南伝仏教(興然の上座部、原文では小乗)と北伝仏教(慧海の大乗)の徒同士がまったく引かずに自らの原理原則で押し通そうとする、まじでサウザーVSサウザーかと思いましたよ。興然のことを偏狭で気の毒と勝手に規定しながら「あなたの教えには従わないが語学は教えてくれ」と極めて都合のいいことを堂々と要求するわけだからそりゃぁ喧嘩にもなるさ!

そして肝心の歌ですが、慧海の歌が近代短歌に与えた影響は、おそらくほとんどないでしょう。なので彼の歌を読むことで文学に資する意味もまぁ、特になく、単に私が楽しいだけです。けれどこの不世出の超人(にして奇人)が歌の形に込めたものを100年以上の時を経て味わっていくのは、これはちょっと興奮する。いや別にすごい秘密が隠されているわけでは全然ないのだろうけど。秘境というよりむしろ曠野だけど。

ともあれ、お煎餅を齧るみたいにすこーしずつですが読み進めながらボチボチやっていけたらと思います。


チベット旅行記はパブリックドメインなので青空文庫で読めます。Kindleでも0円!

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