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チベット短歌記〜河口慧海の歌を読む:4

明治時代、仏教原典を求め単身でチベットへ潜入した僧侶、河口慧海。その旅が記された「チベット旅行記」の中で詠まれた歌を鑑賞するこころみ、第4回です。
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インドよりネパールへと入った慧海は、ヒマラヤへと向かう道中でひとりのモンゴル人ラマ、セーラブ・ギャルツァンと出会います。チベットで修学したという彼の住む村、ロー州ツァーラン村へと同道した慧海。この村はヒマラヤ奥地、チベットとの国境に近い地域にあり、ネパール国内ですが文化、風土的にはチベットの一地方のようなところです。慧海はこの村に1年ほど滞在するのですが、それは主にギャルツァン師よりチベットの語学、文化などのレクチャを受けるためで、代わりに慧海は中国(原文ではシナ)の仏教文化をレクチャする、いわばウィンウィンの関係した。

ところで慧海は中国人僧侶と詐称してネパールに入国したものの素性はもちろん日本人です。なのでギャルツァン師にレクチャしたのは正確には中国経由で北伝した日本仏教のはず…。その辺りをウヤムヤにして目的を果たしてしまうちゃっかり加減が聖人らしからず、また面白いところです。っていいのかよ!
でもその面白い人柄からでしょうか、滞在1年ほどのあいだで慧海はすっかり村の人気者となり、21世紀の今でもツァーラン村では慧海が伝説のラマとして崇敬の対象とされていると言うから驚きます。むちゃくちゃ印象が強烈だったんだな…わかる気がする。

ではそんなツァーラン村の日々で詠まれた一首から参りましょう。

10)
あやしさにかほる風上(かざかみ)眺(なが)むれば
  花の波立つ雪の山里

河口慧海「チベット旅行記」より

慧海が滞在したツァーラン村では、夏に一斉に蕎麦の花が咲いたそうです。その花の上を、雪の高山から吹きおろす風がふうわりと通りすぎ、一面の花が海のないこの土地で波のように揺れはじめる…、なかなかに神秘的な風景だな、と思いました。だから「あやし」はおそらく「奇し」で、めずらしくも美しい風景への形容なのでしょう。
松尾芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天の河」と同じく、目元の情景から大きな風景にカメラがパンしていく映像的な感じも好きです。もちろん芭蕉のソリッドさとは異なり「眺むれば」もちょっと喋りすぎな気もしますが、慧海の体が実際そう動いたんだ(ろう)からいいのか!

続いては村を後にして遂にヒマラヤ越えに向かう歌です。こちら!

11)
空の屋根、土をしとねの草枕(くさまくら)
    雲と水との旅をするなり

河口慧海「チベット旅行記」より

ヒマラヤ越えルートの雪解けのタイミングを待って、いよいよ出発する慧海。ここから苦難に満ちた本当のヒマラヤ越えが始まる、その時の歌です。第2回の時に紹介した「いざゆかん」の勇壮さは完全に消え、自然に身を任せる謙虚さが前に出てきています。この素直なところが本当に好もしい。直後の文で慧海は「草枕」ではなく実際に体験したそれは「岩枕」だった、と述懐しますが、そんな反省めいたところも素直でいいなと思いました。それでもヒマラヤの自然に対する敬意と解像度はグンと上がっています。下句「雲と水との旅をするなり」が印象的でいい歌だと思います。

そうして次の歌ではいよいよヒマラヤ越えの核心部に入って行きます。

12)
ヒマラヤの雪の岩間に宿りてはやまとに上る月をしぞ思ふ

河口慧海「チベット旅行記」より

はい来ました仲麻呂タイプです!そして再び「をしぞ」の助詞コンボによる強調形。異郷の月に故郷を思う歌法は、和歌短歌に限らずポップソングにもありますよね。でもここは風雅な切なさではなく、ほとんど命に関わるような状況の中、おそらくは生存への象徴として月の向こうに故郷を見たのだと思います。苦難の箇所をちょっと引用しますね。曰く

『勇を鼓して上に登れば登るほど空気が稀薄になりますので動悸は劇しく打ち出し呼吸は迫って気管が変な気合になり、その上頭脳の半面は発火したかのごとく感じてどうにもして見ようがない。もちろんその辺には水は一滴もなし雪を噛んでは口を潤しつつ進みましたけれども、折々昏倒しかかるその上に持病のリューマチのために急に足部が痛み出してほとんど進行することが出来なくなって来ました』

河口慧海「チベット旅行記」より

高地の峠を越えに越え、高山病と思しき症状に加え持病のリウマチもあり、その記述も本当に辛そう。でもその厳しさがそんなに歌には出ていない。慧海がそこまでキツいといっているので半端じゃないはずなのに、歌自体はどこかのんびりしています。すごいのか、すごいな。


はいてなわけで!ヒマラヤの自然の中に足を踏み入れての3首を紹介してまいりましたが!
ん〜、なんと言うのでしょうか、自然の猛威と雄大さに触れるヒマラヤ最奥の村の生活の中では、天険を超えていったるぞ的なイキリはまったく鳴りを潜めて謙虚に、あるがまま自然を、その厳しさも含めて受け入れていく様子が伺えてきます。歌の調子は大きく変わっていないのですが、でもその中に、景色に対する感情の変容が見られて感心した次第です。

ところで慧海の辿った足跡は、これらの歌を詠んだあたりのドルポ地域まではわかっていましたが、ここからのルートは謎とされていました。密入国に際し間道を教えてくれた協力者や荷持などに事後の憂いを残さないため敢えて記述していなかったのだそうですが、近年この時期の日記が発見され、ついに長年謎とされていた慧海ルートが特定されたそうです。とはいえ本稿は歌の鑑賞が主眼なので、ご興味のある方は検索などして調べてみてくださいませませ。

さてさて!
次回はついにヒマラヤを越え、慧海は日本人として初めてチベット高原に到達します。チベット高原で人類史上初めて詠まれた歌、どんな歌になるんでしょうね。


慧海のツァーランでの生活とツァーランの現在についてヤマケイオンラインに登山家、稲葉 香さんのレポートがありました!おもしろいです!

チベット旅行記はパブリックドメインなので青空文庫で読めます。Kindleでも0円!

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