「錯覚の哲学」〜共同体を構成するタテ(記憶)とヨコ(言語ゲー厶)の循環〜 ④

「ソクラテス」を訂正することは可能か?

日本語、原宿、結城夏嶺・・・同類の中でほかとは違う固有の意味や定義を持つ名前・固有名。こうした固有名を聞いて、あなたは何をイメージするだろうか。愛すべき母国語か、思い出の地か、二度と会いたくない人か──それぞれのイメージは人によって異なるだろう。それは、固有名が一般名よりもさらに人の記憶と深く結びついたものだからだ。それは、固有名を定義づけることの難しさからも分かる。 

たとえば、「ソクラテス」という固有名をどう定義づければよいだろうか。辞書に書いてある定義をそのまま使えばよいだろうか。あるいは、「男である」や「哲学者である」といった要素を無数に並べていけば、最終的にはその定義を確定できるだろうか。答えは否。私たちのほとんどは、辞書に書かれている「ソクラテス」の定義をすべて知っている訳ではない。あるいは人によっては、辞書の定義よりも多くのことを知っている場合もあるだろう。私たちは、辞書通りに言葉を使うわけではないのだ。

また、「ソクラテス」に当てはまる定義を無数に並べていっても、その定義そのものが訂正されてしまう可能性すらある。「ソクラテスは実は女だった」や、「ソクラテスは哲学者ではなかった」といった命題は、論理的には成立する。もしそれらが成立してしまった場合、私たちは「ソクラテス」という固有名ではなく、その定義の方を訂正する。そして、相変わらず「ソクラテス」という固有名を使い続ける。そうして「ソクラテス」の名のもとに、新たな人物イメージが生み出される。

私たちは固有名というものを定義からではなく、その名前にまつわる記憶から意味を確定させている。だから辞書とはズレた使い方であっても、その名前がどのように使われてきたかという記憶から、人々は意味を確定することができる。またその固有名に関する新たな歴史(記憶)が “発見” されれば、その定義を訂正することもあるのだ。 

記憶との結びつきが強い固有名は、一般名よりもこうした “雑な” 使い方が許されることが多い。なぜなら前回説明したように、私たちの記憶は曖昧で、その都度訂正されるようなものだからだ。ゆえに固有名は、さまざまな人の解釈の幅にも耐えられるものとなる。これはまさしく、共同体のアイデンティティの本質である。

共同体のアイデンティティは定義によって決まるのではなく、我々の記憶(歴史)が決めるものだ。記憶との結びつきが強い固有名が、ほかとの差異=境界を作り出すために共同体のアイデンティティとして選ばれ、訂正され続ける。もちろん、一般名だって我々の記憶と無関係なものではないし、固有名と同様の性質を持っていることもある。しかし、こと共同体のアイデンティティとしては、一般名と比べて記憶の “濃度” が高く、曖昧化されやすい固有名の方が、よりふさわしいといえるだろう。

「わたし」と「我々」を結えるもの


曖昧な共同体のアイデンティティとしての固有名は、これまたルールが曖昧な「言語ゲーム」によって持続していくことが可能になる。3.11で発生した原発事故後の福島復興を取材した「リスクと生きる、死者と生きる」(石戸諭)には、このことを示唆する箇所がある。 

「末続に住む人たちは、みな自分たちの米が一番美味しいと言う。遠藤さんは遠藤さんの米が一番だと言い、別の家は自分たちこそが一番なのだと主張する。他の地域からやってくる人たちには、とりあえず「末続で取れた米」がうまいという。たぶん、それが文化と呼ばれるものなのだろう」 『リスクと生きる、死者と生きる』(石戸諭 )

この一節は、共同体のアイデンティティと固有名との関係をよく表している。単なる「米」という一般名ではなく、「遠藤さんの米」という小さな固有名が「末続の米」というより大きな固有名に吸収され、その地域共同体のアイデンティティが生み出される。それぞれの家の人たちは、自分の家の米を指すものとして「末続の米」という大きな固有名を使うだろう。このように言葉の意味にズレがあってもコミュニケーションは成立する。それは、私たちのコミュニケーションがルールが曖昧な「言語ゲーム」だからだ。
「遠藤さんの米」って美味いよね、と言っても「末続の米」って美味いよね、と言ってもコミュニケーションに不都合は生じないだろう。

やがて共同体のメンバーが「死」によって入れ替わり、「末続の米」という固有名(アイデンティティ)が曖昧になっていくことで、その定義は新たな世代が作った米によってアップデートされていく。「末続の米」という伝統= “タテのつながり” は、複数の糸が撚り合わさったものとして形作られていく。それでも曖昧な言語ゲームは、いつまでも「遠藤さんの米」をその糸の一本として矛盾なく「末続の米」につなぎ留めつづける。こうして結果的に、遠藤さんの子孫たちも、他者が作った「末続の米」にさえ、自分たちのアイデンティティを錯覚できるようになる。これが文化を生む共同体の「循環運動」だ。

─ 訂正されつづけるタイムライン

私たちの「言語ゲーム」も「記憶」も曖昧だからこそ、言葉と記憶とが互いに訂正し合う循環運動が生まれる。死者によって紡がれてきた曖昧な “タテのつながり” が、私たちの言語ゲーム=ヨコのつながりの審判・観客となる。言語ゲームはルールが曖昧だから、これまた曖昧な言葉の意味のズレを審判・観客からの “視線” を借りながら調整しつつ、コミュニケーションを成立させる。そうして日常の「生活の流れ」ができると、人々の記憶が新たに訂正されていき、”現在の視点” ができあがる。そして、そこからふたたび “タテのつながり” が形成・訂正されていく。すべてが曖昧だからこそ、タテ・ヨコのつながりが矛盾なくダイナミックな一体になる。この構造がアイデンティティを錯覚させる。 

共同体における「固有名」は、この訂正の循環運動というダイナミズムを体現しているのだ。これらの循環運動の中には、客観的なものなど何もない。すべてが曖昧だから起きる錯覚によって成り立っている。これこそ、「錯覚」が共同体の本質たる所以だ。


※共同体についての話はここまで。機会があれば、次回以降はいよいよ「居場所とはなにか」について書く予定。キーワードは、「瞬間的な感情と物語感情」「印象と類似性」「言語ゲームによる類似性の創発」「懐かしさと親しみ」など。

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