結城夏嶺

主にアイデアをまとめるために書いてます。ご興味あればコメントもどうぞ。

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最近の記事

「錯覚の哲学」〜共同体を構成するタテ(記憶)とヨコ(言語ゲー厶)の循環〜 ④

「ソクラテス」を訂正することは可能か? 日本語、原宿、結城夏嶺・・・同類の中でほかとは違う固有の意味や定義を持つ名前・固有名。こうした固有名を聞いて、あなたは何をイメージするだろうか。愛すべき母国語か、思い出の地か、二度と会いたくない人か──それぞれのイメージは人によって異なるだろう。それは、固有名が一般名よりもさらに人の記憶と深く結びついたものだからだ。それは、固有名を定義づけることの難しさからも分かる。 たとえば、「ソクラテス」という固有名をどう定義づければよいだろ

    • 投票と共同体意識

      選挙で投票しても何も変わらないから無意味という人が多いが、そりゃ「個人」でいったらそうなるでしょ。たった一票でしかないんだし。 そういうのが嫌なら、投票は共同体意識を高める行為だとすればいい。同じ思想(投票先)を持つ「仲間」だという意識を育む行為だということ。そう思える仲間、共同体を持つようにすること。 ま、こういう共同体意識って嫌われる時代だから虚しいんだけどね。

      • 「多様性」はストーリーテラーがいないと単なる烏合の衆を作ってしまうという話

        人の集団は共有できる「物語」が無いとまとまらない。会社でも部活でも、「同じ仕事をしている仲間」とか「優勝を目指す」みたいな物語があるからコミュニケーションが成立する。これは言語ゲームと共同体の関係の話である。 ここでいう物語は別にドラマチックなものでなくてもいいし、多くの場合、そんなに意識もされてない。だがもし、なにか集団に歪みが生じたり、環境が変わってそれまでの物語がうまく機能しなくなった時に、多様性が重要になってくる。 色んな人がいて多様性があれば当然、色んな物語を作

        • 「錯覚の哲学」〜死と共同体のアイデンティティの関係(東浩紀「訂正可能性の哲学」との違い)、共同体の倫理について〜 ③

          前回、私たちは言語と共同体の密接なつながりについて確認した。言語自体に本質的な規則がないことから、私たちは所属している共同体からの “視線” に依ってコミュニケーションするしかない。共同体が審判・観客として機能することで突飛な言動が排除され、安定したコミュニケーションを行うことができる。これは、思想家・東浩紀の「訂正可能性の哲学」でも紹介された、ソール・クリプキという哲学者の理論である。 東は、この論考でさまざまな哲学的操作を駆使しつつ、共同体の「訂正可能性」という概念に

        「錯覚の哲学」〜共同体を構成するタテ(記憶)とヨコ(言語ゲー厶)の循環〜 ④

        • 投票と共同体意識

        • 「多様性」はストーリーテラーがいないと単なる烏合の衆を作ってしまうという話

        • 「錯覚の哲学」〜死と共同体のアイデンティティの関係(東浩紀「訂正可能性の哲学」との違い)、共同体の倫理について〜 ③

          「1対多」のコミュニケーションと責任について

          SNSでは炎上や選挙などの「イベント」があるたびに、一人の人間に対して大量のコメントが飛んでくるが、そうした時にAIが自動的にそれらのコメントを要約したものを表示するようにして欲しい。 このとき、個別のコメント一つ一つを見る必要はない。精神的にもよくないし、実に色んな人が色んな意見を言ってくるので、それら全てに応答しようとしても物理的に不可能だから。また、あまりにも情報が多すぎて判断もできなくなる。だから、すべてのコメントを要約した文章を読むだけでいい。そのうえで、どう判断

          「1対多」のコミュニケーションと責任について

          「錯覚の哲学」〜言語ゲームと共同体〜 ②

          血をまき散らしてすまない─── 伝説的なブラックメタルバンド・メイヘムのボーカルだったデッドの遺書の最初の一文である。1991年4月、彼は手首と喉を切り裂いたあと、ショットガンで頭を撃ち抜いて自殺した。その時のデッドの実際の遺体を写真におさめ、レコードのジャケットにしたのが当時、メイヘムのリーダーだったユーロニモスという青年だ。これを機に、彼は一気にカリスマとなり、メイヘムは悪魔的なバンドとして君臨し、「インナーサークル」という一種の共同体を作り上げた。 このインナーサーク

          「錯覚の哲学」〜言語ゲームと共同体〜 ②

          「錯覚の哲学」〜居場所とは〜 ①

          夏の沼津。 私はとある作品の「聖地巡礼」でその街に来ていた。初めて来た場所にも関わらず、どこか懐かしさや親しみを感じる。夏の日差しを反射する、というよりはそれ自体が発光しているかのような炭酸の海。星々を呑みこむ紫煙の夜空。そして何より、星空を予感させる間接照明のような夕焼けの砂浜。 どれも初めて見る景色───いや、その景色は確かに、そこに「再現」されていた。そこで私はノスタルジーのような親しみや懐かしさを覚えたのだ。まるで「帰ってきた」かのようなこの感覚に、私の気分は高揚して

          「錯覚の哲学」〜居場所とは〜 ①