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あまのじゃくな相反する感情と向き合う

自分を愛したいけど、愛したくない

親を大事にしたいけど、大事にしたくない

人を信じたいけど、信じたくない

話したいけど、話したくないこと

一緒にいたいけど、いたくない

愛されたいけど、愛されたくない

人と深くなりたいけど、なりたくない

生きたいけど、生きたくない


いつだって、
人の感情というものは
常に相反していて、
心から本当に望んでいるはずのことが
いざ起きると突き放したくなる。

「自分はそんな人間じゃない」と思う。
「大して大切にされるような人じゃない」と思う。


私をよく知れば、
過去のように皆どうせまたいなくなる、
と思っていた。
いつか離れていくのだから、
深くならないで欲しい、と思った。


いなくなるくらいなら、
初めから一緒になんか居ないで欲しい、と思う。


ああ、また同じこと繰り返してる。
わかってるのに、同じことを繰り返す。
メタ認知してるのになぁ、
また同じことの繰り返し。


また心が疲弊するまで悲しむんだ。
"破壊してしまって、悲しんで、またひとりで生きてくしかなくなる。"これの繰り返し。


破壊したっていいのに、それが私なのに、
それを拒むんなら私を拒むのと同じだから
(思い込みかも知れないけど)
一緒にいないほうが良いって思った。

自分のことを受け入れることはない世界で生きていられる。その方が心地良かった。受け入れられる世界なんて無いと思ってたから。


だけど、もしかしたら受け入れられる
世界線もあるのかもしれない?と思ったと同時に、
予想外の嬉しさの一方で
激しく抵抗してる自分がいる。


二十何年長いこと付き合ってきたのは、
"何からも受け入れられない自分"だったから。

こういう視てる世界って
自分自身の体験からで創り出されてるんだって
わかってる。
変わってほしいと思ってもすぐには変わらない。


それが"受け入れられることのある世界"になるのは訳が違って、何もかもが変わってしまうしこれまでの生き方が通用しなくなることを感じていた。
きっと、それが怖い。大きすぎる変化が怖い。


「自分なんか受け入れないで欲しい」と思う。


受け入れられなくて当然の人間なのに、
なんで今一緒にいる人は受け入れようと
してくれたりするのだろう。


たぶん、
私はすべての行動の裏には
ちゃんと意図があるものだと思って、
歪んだ認識で相手を視ていた。


自分のことが好きだから?が
信じられなかった。
だって、私は私を愛せていないのに。

私は、自分や他者に対する期待が大きいせいか、
「こういう人間にならないと人から受け入れてもらえない」
「こういうパートナーシップの在り方でないとうまくいかない」
と自分で勝手に基準を設けている節が大いにあるのだと思う。

で、
この基準通りにできていないと終わりで
基準内だったら大丈夫、と思えた。

痛みをくらうも弱さを知るのも
大きな変化も全部怖いから
0か100しか選べない頭だった。


受け入れようとするのにも、ウラがあるはず。
騙されてる、と思う。
受け入れられたくない。
いつか裏切られる、と自分の感覚を信じてしまう。
自分を守ろうとする。
故に相手を純粋に視られなかった。

だから、
裏切られる前に裏切ろうとしてしまうし、
去られる前に去ろうとする。

だから、初めから無くなるなら
付き合う約束もしたくなかったりした。

それは、きっと痛みから逃げたくて。
受け入れられなかったと知りたくなかったり
痛みを感じたくなかったりして

だから、自分をダマせてしまう。

いつでも去れるように気づいたら
私はもう好きじゃないんだと思い込んでた。
本当に真実になることを知ってた。

このことに慣れすぎて、
思い込もうとかも思わずとも
勝手に世界がそうなる。

いつからか、もう癖になっていた。
痛みを感じたくなくて、
いずれ居なくなるなら
独りでいることを選んできたのに
今はそれを中々すぐに選べない自分がいる。

結局独りで居ることを選べないってことは、
きっと心では
今の人と一緒に居たいということなんだと思う。

きっと頭で考えて、
自分を守る術を駆使してきたのに、
今はそれを使い切れない私が居て

合理的に考えて離れようと思うのに、
離れられてない自分がいる繰り返し、、。(笑)

自分でもなにがしたいのか
ぜんぜんわかんなくなる。

頭(理性や倫理観とか)
心(感情とか直感みたいなもの)

頭と心がちぐはぐだった。
頭では逃げようとしてるのに、
心はそうさせてくれなくて、
どれが自分なんだろうと思った。

心に従えとかよく言うのと、
きっとそれが良いのだろうとは思うのだけど、
自分のことになるとてんで難しく感じる。

痛みから逃げたい
また失敗したくない
変化をしたくない   ……
いろんなものが邪魔をする。

でも、振り返れば
繰り返すことをわかっててやってる気がした。

でも、いつかは、
同じパターンで終わらないのを
待ってた気がする。

でも、そんなのは死ぬまでにあるのかないのか
わからないようなことだった。


また同じようなパターンで終われば、
"予想通りのことが起きただけ"で終われる。

私が大事にしてることを大事にした結果、
それで終わったなら仕方ない、と思った。
どんな結果も承知の上で自分を貫き通そうとした。

だって、私が私でいないと、
また仲間も生きがいも失う。

それが耐え難い痛みだったし、
何で生まれてしまったんだろうと
ずっと悩んでいた。

あの時、私が私で居られなかったせいで
全部失くなった。

それからは、
強迫的に私が私でいることにこだわった。

またあの痛みを伴って、自分を見失うくらいなら
初めから繋がりなんか要らないと思った。

あの時の痛みが未だに
自分を苦しめているのもわかってて、
そんなの自分が一番良くわかってて、
大人になるにつれて恐れで
身動きが取りづらくなっているのも本当だった。

「大人になるってこういうことかー」
と悲観して俯瞰してる私も居て、可笑しい。


でも、
一喜一憂して、気持ちも落ち着いた今
振り返ると楽しかったこともあったよなぁとか
そう思える、今の人生の中のこの時間は
とても好きだなとも思った。

このときのために
いろんなことがあったのかも、とも思う。


絶望や苦しみばかりの人生でも、
それでもまだ生きるのは、きっと未だ期待しているから。
「未だ何に期待しているのだろう。」

いつからか、
生きていたくなくなる度に
自分に問いていたことだった。


私は未だ、
多分人とわかり合うことに期待しているのだと思う。
今は根底では無理だと思ってる。

だから、解り合えるなんて思ってる人は
自分から遠ざけたくなる。

世界が実は、自分の思う
酷く絶望した世界だけでもなかった
と本当は知りたいのだと思う。


家族も
会社も
パートナーシップも

わかり合えないと絶望しては
傷を負って痛みが生じて、
恐れを抱え続けて生きてきたのだと思う。


わかり合えないと強く信じる裏には、
「わかり合いたかった」と
打ちのめされてきた自分がいる。

わかり合いたいけど、わかり合いたくない
気持ちになる。

わかり合いたいけどわかり合いたくないから
心と頭がちぐはぐになってしまう。

心に従って生きたい。
むずかしいけど、
頭が先に言っててやってることじゃなくて
動かないと生きていられないような
心の奥の方の源から湧き出るような
そういう心を大事にする。

痛みから生じる恐れに囚われすぎず、
誰かのためとか自分のためとか、
それすらも考えることが無いような
草花のようなスタンスで生きたいなぁ。
☘️🪻

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