世界は、「共感」の良い面しかみていない
この世界は、言葉の良し悪しを正確にとらえていない。
たとえば、"共感性が高い"とは、どんなことを想像するだろうか。
「共感」という言葉から連想されるのは、いいイメージしかないのではないだろうか。
わたしは、そうだった。
「共感」といえば、自分が共感できること、共感してもらえることがイメージにあったため、良いイメージしかなかった。
しかし、「共感」という感情は、犯罪心理においても見受けられることに最近気づいた。
最近の気付きとしては、殺人犯も共感性の長けていると気づいたことだ。
この話では、
「殺人を犯すことは自傷行為と等しい」と捉えた前提で話をしたい。
自傷行為を行う真意は「自分が生きている実感がほしいから」だと私は思う。
自傷行為とは、「自分を傷つけること」といったように字のまま捉える人が多く、リストカットで自分に傷をつけるイメージが先行するが、それだけではない。
「他人を傷つけること」も自傷行為だ。
「DV(家庭内暴力)も自傷行為なんじゃないか」と言っていた人がいた。
それまでは、「他人を傷つけること=悪」でしかなかった。「他人を傷つけること=自傷行為」と言う捉え方で考えると、想像の余地が増えた気がした。
"自分の子供を傷つける"というのは、「自傷行為に値する」と、そう聞いてから少し視点が変わったように思う。
その真意は、「人を傷つけることで、自分を傷つけている実感が持てる」からではないかと、最近はより鮮明に思う。
人を傷つけて、傷ついている人を見て、「人を傷つけている自分」に浸ることで、結果自分を傷つけるのではないだろうか。
または、人を傷つけることは、自分と社会を断絶する行為と等しいのではないだろうか。
きっともう、この状態になる人は、
"自分が傷ついていることに鈍感な場合"が多いのではないだろうか。
自分自身を傷つけるだけでは飽き足らない心理状態なのだろうか。
それとも、自分を傷つけるか、人を傷つけるかの違いは"個々の表現の違い"なのだろうか。
どちらにせよ、自分自身を傷つけていることに変わりはない。
"人を傷つけることで、自分を傷つけようとする人"にとっては、「自分を傷つけるより、誰かを傷つけることで自分を傷つけるほうが、自傷行為の欲求が満たされる」のだろう。
人間は、社会的な生き物である。
だから、社会とのつながりを断然されることの痛みが、自分の心身が傷つけられる痛みを超える世の中なのかも知れないとも思う。
他人を傷つけて自分を傷つけようとしようが、自分の心身を傷つけて自分を傷つけようが、どちらにせよ「自傷行為をしないと生きている実感が沸かない」 なんて、なんて非情で世知辛い世の中なんだろう。
そんな世界に、私たちは何ができるのだろう。
そして、そんな自分とどう付き合って、受け入れていくべきなのだろうか。
読んでくれてありがとう、ではまた!
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