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ときどき、世界から自分を断絶したくなる

『誰とも関わりを持たずに独りでいたい。』

昨日まで、”ふつう”に学校へ行っていたが、時折そんな気持ちになり、小学校・中学校・高校と休みグセがあった。

いつも同じ道を歩いてるけど、たまに別の道から行こうとするような、そのくらいのクセである感覚だった。

20を過ぎた今もそれは定期的に起きる。今も若干そうであると思う。

子供の頃からたまに来る発作のようなクセだった。

高校生の時、よく学校を休んでいた。当時、理由は自分でもわからなかった。

『行ける。』と頭では思っていたのに、カラダは動かなかった。今思えば、きっと本心は行きたくなかったけれど、その本心に頭では気づかなかったのかなと思う。

...突如、昨日までの”ふつう”の自分が嫌になっていた。なんだか、昨日までの世界はすべてフェイクに見えた。もっとも、初めからフェイクに感じていたのだが。

一見溶け込めている風な自分も、溶け込めている表面だけ見て疑わない人々も、ぜんぶフェイクに見えた。

すると、人と居る時間は、いつ何時も自分もフェイクに感じるようになった。
そして、社会の中でフェイクでない自分で生きる方法がわからなくなっていった。きっと、誰も私がフェイクであることに気づくことが容易ではなかったから。

そして何より、私がフェイクであることを口にすることに恐れを感じていたからだった。

高1の夏、髪の毛が半分抜け落ちた

ある日、自分の髪の毛が半分抜けていった。

ソフトボール部に入ったものの、年功序列の理不尽な態度が納得いかなかったのと、部活の練習自体が楽しいと感じなかったので、辞めた。

辞めたあと、陰口で先輩から自分のことを悪く言われていると聞いた。

しかし、辞めたあとはソフトボール部の先輩や同級生の視線が怖くて、気づいたら髪の毛が半分ほど抜け落ちた。

気づかぬ内にストレスとなっていたみたいだった。

だから、私はきっとその世界ごと、"すべてがフェイク"だと思いたかったのかもしれない。


フェイクに感じるものすべてが消えて欲しくなった

真実は、人の口から語られることは少なく、あるとしたらそれは限られた場であることを知っていたから、だから真実でない対話だと少しでも感じるものはニガテだったのだと思う。

人は、保身のために自分を偽る。真実を語る術をしっているのは、保身せずに生きる術を知っている人だけだった。

自分の保身のために真実を語らない人は嫌いだった。

結局自分がかわいいだけ、結局自分が愛されたいだけのスタンスが嫌いだったからだ。

何でもそうだが、受動的に生きていて、自分の望みが叶うと思っている人を見ると、いくつかの感情が葛藤するような複雑な感情になる。

それはきっと、自分がしたことない生き方であり、少し羨ましいと思ってしまうくらいだから”嫌い”という感情として現れるのだろうと思う。

なんだか、まとまりがなかったような気がするが、そんな自分がいることをnoteに書いていたいと思ったのでかいた。

読んでくれてありがとう、ではまた!

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