らしくないコンサル、3年目。

大学を卒業し、都内のとあるコンサルティングファームに入社して3年目。親しい友人達からは「コンサルなんてらしくない」と言われ続け、自分でもそう思いながら、なんだかんだ居座っている。

思い返すと、確かに入社当初は葛藤続きだった。この人達と自分とでは話す言語が全く違う、とまず悟ったから。

言葉。

それは私にとって、相手への想いや優しさを込めるものであり、これくらいの%で向き合ってますという意思表明であり、また自分の内なる感性を表すものだった。当たり前にそういうものとして、私は言葉を使ってきた。逆に相手から受け取る言葉は、その人の今日の調子とか、形成された価値観とか、そういうものを汲み取るためのヒントでもあった。

言葉とは、自分と相手の見えない内側を表すメディアだった。

それが今の会社に入社して、言葉の通じない国に単身いきなり放り込まれたような衝撃を受けた。それくらい、それまで当たり前としてきた言葉の概念が覆された。

業種柄、会話にも”効率”が求められるビジネスど真ん中の世界。受け手の感情をおもんばかるたった一言、二言の前置きや、婉曲表現に割かれる時間などない。それでいて議論が白熱すると、敵意の感情や怒気を隠さない人も中にはいる。自分の感情を、こうもフィルターを通さず、そのまま言葉と語気に乗せてしまうなんて。入社当初はとてもがっかりした。会社でコミュニケーションを取るたび、一方的に心をすり減らす日々が続いた。

だけど、そこは伊達に大学生活を言語学習に費やしてきたわけじゃない。新しい言語を吸収するコツならば、この体と感覚に沁みついている。ここでの公用語を習得しようじゃないか。そこから私は、暗号のような上司の指示、メール文、雑談を慎重に咀嚼していった。

そして、まあまあ時間はかかったけれど分かってきた。彼らにとって、言葉は色を持たない”機能”であると。

彼らのメール文を何度読み返しても、人間的な感情は何も読み取れない。けれど、確かに一文一文に必要な情報が詰まっていて、その意味で無駄な文章は一行たりとも見つからない。この世界では、ゴールまでの最短距離を走ることが第一。それ以上でもそれ以下でもない。

そういうことか。彼らと私では、言葉に持たせる意味合いが全く違っていたんだ。だから意思疎通できなかったんだ。

毎日リスニングを続けているうちに、上司ともだいぶスムーズな会話ができるようになった。今でも感情がそぎ落とされた言葉に触れて落ち込まないことはないが、それでも彼らの言語に翻訳して咀嚼すれば、真正面からダメージを受けることはなくなった。これが、”効率”という大テーマに支配された世界で生きていくということか。

コンサルは極端な例である気はするけれど、ビジネス上のやり取りという意味では、あまたの職場で共通することなんだろうと思う。まだ1つの会社しか知らない私に、比較できる引き出しはないのだけれど。

言語を手がかりに、その背景にある思考性や文化に思いめぐらせ、その言語を話す人々への理解が深まったという、今日はそんな話。

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