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無機質なカフェの犬の鳴き声

カフェがあった場所に居抜きで似たようなカフェができた。店内にはお店で面倒を見ていると思われる小型犬がいて、定期的に甲高い声で鳴く。

犬は好きだし、犬が鳴くのは当たり前で、犬はおむつを履かされ狭くてツルツルの床で大人しくするしか選択肢がなく、気の毒ではある。そりゃ鳴きたくもなるよなと思うし、鳴かない方が生き物として不自然なのだろうし、犬のことを思えばどんどん鳴きな〜と思うけど、落ち着いて本を読みたいと訪れた無機質なおしゃれカフェで店内にキャンキャンという鳴き声が響き渡るのはうんざりしてしまう。言葉を選ばずに言えば、不快だった。

動物愛護に関して詳しいわけではないけれど、どうも腑に落ちないことがある。動物を大切にする考え方自体は賛成で、動物に虐待をするとか、人間の都合で殺処分したりとか、最悪だとも思う。

ただ、この社会は人間を中心に回っているのであり、動物の権利保護のために肉は食べないと決めているビーガンだって、自然を切り開いて作られた人間社会で生きている以上、動物の犠牲の上に生活をしていることは変わらない。

つまりどれだけ自分が動物を大切にしようとしたところで、大きな視点で見れば動物にとって人間は迷惑な存在であるわけで、その前提があまり語られていないように感じることにモヤモヤしているのだと思う。

このカフェの人たちも犬を大切に飼っているのだろうし、「犬が鳴くのは当たり前じゃないですか!」「犬は私たちの大切な家族なんです!」みたいなことを言われたわけでもない。もしかしたら今日たまたま何かのっぴきならない事情があって犬をお店に連れていきているのかもしれない。

それでも犬にオムツをはかせ、ツルツルの床にリードでつなぎ、狭い範囲で何時間も過ごさせるのは勝手な話だなと思う。

もしこのカフェがペット同伴可だったり、看板犬が売りのお店だったりすれば印象はまた違ったんだろうけども、どう考えても若い子に向けた無機質なおしゃれカフェなわけで、コンセプトがあって犬がいるわけでもなさそうなことにもモヤっとしたのかもしれない。

繰り返すけど、犬が嫌いなわけではない。犬がワンワン鳴くのも当たり前だと思っている。むしろ人間の言うことを聞いてお行儀良くしている犬の方が見ていてなんだかな〜という気がしてしまう。

動物愛護の他に、「ペットは家族」にも心がザワザワしてしまうのだけど、そう感じるのは人間の傲慢さを感じてしまうからかもしれない。人間が動物の生活を侵害していることや、ペットとして生き物を飼うことの残酷さが、あまりにも無視されている気がしてしまう。

ペットをどれだけ愛して手厚く面倒を見たとしても、人間の都合を前提とした関係性である以上、それは家族なんだろうか。ペットを家族だと思う気持ちを否定するつもりはないし、それだけ大事な存在であるのだろうし、私は犬を飼った経験もないから、実際のところ飼い主と犬の関係性はよくわからない。人間関係が十人十色であるように、人間とペットにもそれぞれの関係性があるのかもしれない。

それでも、やっぱりペットはペットなんじゃないかな〜と思ってしまう。「ペットとして愛しています」と言われる方がよほど動物に対して謙虚な気がする。

こんなことを考えているのは、カフェで読んでいた本が「サバイバル登山家」だったことも影響しているかもしれない。限りなく荷物を減らし、自分の身体能力だけを頼りに山に入り、岩魚や山菜で食いつなぎながらおよそ1カ月かけて日高山脈を日勝峠から襟裳岬まで歩いた体験記を読みながら、無機質なカフェで犬の鳴き声を聞いている。この組み合わせの悪さがこんなことを考えさせたのだろう。

そんな本をおしゃれカフェで読むことが間違っていたのかもしれないけど、本の中身と現実の環境のギャップが大きいから普段考えないことを考えたわけで、下手に緑豊かな公園なんかで読むよりよかったのかもしれない。これもまた良い読書体験か。

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