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沖縄から東京へ。東京に戻ると顔が薄くなるのはなぜ

沖縄最終日。昼過ぎの便で東京に戻る。それまでの時間、パイナップルパークの彼女とお出かけ。名護の二つ目のおうちの家守さんが楽しいと言っていたうるマルシェに連れて行ってもらう。

たまたま産業祭りなるものが開催されていた。出店が並び、リングまで用意されていた。誰か戦うのだろうか。

お買い物をするとピーマントマトすくいができる。トマトを9個すくい「新記録!」と言われるも、近くにいた小さな子に「あたしは11個すくった」と正された。2個及ばす。

近くにはピーマン詰め放題もあった。彼女が小銭を持っていなかったので、「わたしピーマンおごりますよ!」とご提案。一宿一飯のご恩には及ばないけれども、少し何かお返しできてよかった。

ヘタがみずみずしいのが良いピーマンらしい
なぜか二人して「ROSEの番」と読み間違えた
ペット用の小ヤギもいた

車を貸してくれたドジっ子が教えてくれて気になっていた食器のお店にも立ち寄る。マグカップを買い替えたいけど古いやつをどうしたものかと相談したら、植木鉢にするという名案をいただいた。心置きなくマグカップを購入。

沖縄の車窓から

彼女はクリスチャン。大学生まではキリスト教へのアンチの気持ちすらあったらしいが、教会に行く機会があり、そこで「試しに家で神に祈ってみなさい」と言われ、タイミング良くルームメイトも外泊しており、それならと一人で祈ってみたことがクリスチャンになるきっかけだったそう。家にいてもずっとどこかに帰りたい気持ちがあったけど、祈ってみたら「帰れた!」と思えたのだとか。劇的で不思議な話。

彼女の夫もクリスチャンで、結婚する際に「聖書に従って生きる」と二人で決め、何かあったときの判断基準は聖書。今や彼女は聖書オタクで「伏線が回収されたり、普通に読み物として面白い」と、読み物はほぼ聖書になったという。

祈りの対象は彼女が信じる神様だから、「ひな祭りは女の子の健康を人形に祈るものだから、これは私たちには合わない」など、お子さんが産まれたことが行事について改めて考えるきっかけにもなったそう。「どうせ何かに依存して生きていくのだから、それなら普遍的なものに依存しようと思った」という趣旨のことを言っていた。

日本人は無宗教と言われるけれど、実はいろいろなものを信仰している。八百万の神文化であらゆるものに神が宿っていると考え、米一粒にも感謝し、「いただきます」にも感謝と祈りの意味が込められている……という趣旨の本を昔読んだ。

そういう八百万の神の考え方は特別意識されているわけではなく、なんとなくみんなが共通してそんな認識を持っている。「聖書やコーランのように明文化されているわけではないのが特殊だと思う」と彼女。不文律で成り立っている日本の宗教観は確かに不思議。

私は20代半ば、どうにもつらいことがあって「こんな時こそ宗教なのではないか」と教会の前をうろついたことがある。結局うろつくだけで終わってしまったし信仰を持つイメージも湧かなかったのだけど、それ以来ずっと宗教には興味があるので話を聞けてとても面白かった。

ここ数日ほぼすっぴんで過ごしていたのだが、羽田空港に着いてトイレの鏡を見たら顔がとても薄い。旅先では大丈夫だったのに、東京に戻ると明らかにダメになる。この現象はなんなんだろう。周りの人にちゃんとしている人が多いから相対的に気が抜けた感じに映ってしまうのだろうか。

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