感性を磨くための「自分用note」をはじめよう
「note、やってみようかな…」
「でも、連続〜日更新!と続けられるほどの熱量はない…」
「自分の言葉で発信するのって、勇気がいるしな……」
と、「noteを書いてみようかな」とたびたび考えては、特にスタートする理由が見つからず、行動に移さなかった2019年。
昨年、自分が感じたことをどこかで言語化したいなと思った私は、noteではなくインスタグラムに少しずつ投稿してきました。
日常やおでかけ、イベントなどで感じたことを言葉にする。
誰かに教わったり調べたりした内容を、備忘メモとして残す。
ゆるやかながらインスタの投稿を続けてきた中で気づいたのは、「言語化する(=noteを書く)のは、感性を磨くことにつながるのでは?」ということです。
写真+文章で投稿するインスタからステップアップして、本やnoteの記事、ニュース、Twitter…あらゆるものに触れて感じたことを整理する場所。
スキの数やフォロワー数、編集部のおすすめに載る…といった外からの評価はさておき、まずは自分自身のために、2020年はnoteを書いてみたいと思います。
言語化してみて気づいたこと
インスタへの投稿のために感じたことを言葉にしてみて、noteにも通じるであろういくつかの気づきがありました。
✔︎「感じたこと」は、言葉にして初めて感じ取れる
私たちが何かしら感想を口にする時、「すごい」「やばい」「かわいい」の守備範囲はとんでもなく広い。
どこかに行った時の感想も、「よかった」「面白かった」でおしまい。
つい安易に使ってしまいますが、これらは私たちの感性にフタをして思考停止させる危険な言葉です。
何が「すごい」のか。どう「よかった」のか。
言語化することは、五感がキャッチしたものをまず自分に伝える行為なのだと気がつきました。
例えば先日、京都の建仁寺を訪ねた感想として「天井絵などの力強さが印象的だった」と投稿したのですが、これはその場で「すごいなぁ…!」と思ったのを後から振り返って言葉にしたものです。
✔︎誰かに説明すると、知識や思考が深まる
インスタやnoteが日記と違うのは、他の人が読む前提で書くところ。
誰でもわかるように伝えようと思うと、意味がわからない言葉の説明や足りない情報を補足したり、よけいな話を削ぎ落としたりする必要があります。
その場ではわかったつもりでも、いざ書くとなると調べ直すケースがほとんどで、己の無知さ思考の浅さに愕然とすることも多々……
先ほどの建仁寺についての投稿では、そもそも建仁寺とはどんなお寺なのか一言で伝えるとしたら…?と調べ直し、京都で最も古い禅宗のお寺であることや、禅宗の歴史について理解を深めました。
✔︎記憶に残り、自分の考えを話しやすくなる
たくさん読み返すからか、インスタに投稿した内容は特によく記憶に残っています。
また、ただ記憶に残るだけではありません。
私はあまり自分の考えを積極的に話すタイプではなく、言語化するにも時間がかかるのですが、「書く」ことですでに整理されている内容は格段に話しやすくなると実感しました。
誰にでもわかりやすい言葉選びや伝える順番を推敲し、記憶の引き出しにしまってあるので、話題として取り出しやすいのかもしれません。
言葉にしないと感じ取れない
特に大きな学びとなったのは、言語化して初めて認知できる感情や思考があると気づいたことです。
実はこれまで、言葉で表現せずとも人は多くを感じ取っていると思っていたのですが、大きな勘違いだったよう。
頭の中にぼんやりふんわり浮かんだ造形を、粘土で実際に形にしようとすると「ここの角は丸いの?四角いの?」と細部に目がいくように、言語化しようとすると急に視界が晴れるのです。
旧ソ連の心理学者ヴィゴツキーは、子どもの思考と言語の発達に関する研究の中で、私たちが使う言葉には「内言(ないげん)」と「外言(がいげん)」の2種類があるとしました。
「内言」とは、考えるための道具として頭の中で使う言葉。
「外言」とは、他者とコミュニケーションを取る際に使う言葉。
言葉や言語化について考える時、つい後者の「外言」の方に意識を向けてしまいがちですが、まずは自分の心の声である「内言」に耳を傾け、より細やかに言葉を拾うことで視界がクリアになるのだと思います。
梅田悟司さんの著書『言葉にできるは武器になる』でも、(内言・外言という言葉は使われていませんが)わかりやすく語られています。
「言葉にできない」ことは、「考えていない」のと同じである。
内なる言葉と向き合うことは、自分の視点と向き合うことと同意である。そして、自分自身の視点に気が付くことが、外に向かう言葉を磨き、自分の言葉を持つ出発点になる。
「感性」とは何者か?
私はもともと、人の感性を豊かに育むことに関心があり、そのために職人の美しい手仕事を暮らしに取り入れようと、色々なサービスやワークショップを企画運営してきました。
でも、「感性」とはいったい何者なのか、実態が掴みづらい言葉と感じる方も多いのではないでしょうか。
これまでに出会ったお客様の声や自分の体感を通して、感性を磨くとは「気がつくチカラ」を伸ばすことではないかと考えています。
例えば、木工職人から美しい木目について教わると、飲食店などで見かけるテーブルの木目が急に目に飛び込んでくるようになった…など、私自身も「気がつくチカラ」が高まり世界の見え方が変わる体験を重ねてきました。
この「気がつく」プロセスを分解してみると、
1.世界をよく観察する
2.自分の心の琴線に触れる何かを見出す
3.どのように心が動いたか感じ取る
という3つのステップが必要で、「本を読む」「専門家から教わる」などして増えた知見は、「1.世界をよく観察する」のを助けてくれます。
とはいえ、知見を増やすだけでは不十分。
これら3つのステップ全ての底上げにつながるのが言語化であり、インスタやnoteなど言語化する場を持つことによって、この「気がつくチカラ」全体を伸ばせるのではと考えるようになりました。
ちなみに、美大などで学ぶデッサンは、対象物を「描く技術」だけではなく「観察する技術」を身につけるのが必要不可欠と言われています。
広い意味での「観察する技術」は、ここでいう「気がつくチカラ」のこと。
目で見たものや脳内のイメージを、「絵」で形にするのがデッサン、「言葉」で形にするのがインスタやnoteへの投稿だと捉えるとわかりやすいかもしれません。
観察力を鍛える唯一の方法は「とにかく言葉にすること」としている、こちらのような記事も。
僕たちは、見ているようで見ていない。
それを、見ているに変えるために、言葉の力を借りるのだ。
とこの記事にあるように、私たちは見ているようで見ていないし、感じているようで感じていない。
言葉にしないうちは、私たちの感性は閉じていて、本来は気がつけたはずのことも素通りしてしまう。
そんなことを学んだ2019年でした。
誰よりも、まずは自分のために
自分自身の感性を磨くために、もっともっと言語化していきたい2020年。
それが結果として、ほんの少しでもどこかで誰かの役に立つようなことがあれば、もちろんとってもうれしいなと思います。
また、この「自分のために書く」姿勢は、ブログやnoteを続けるコツでもあるようです。
インスタの投稿は、フォロワーやいいねの数がいくつであっても意味を感じられました。
それがなぜnoteになると、大義名分や壮大な目標が必要だと感じてしまっていたのだろう。
1記事でも2記事でもいいやという気持ちでマイペースにいきます。
なぜならこれは、他の誰のためでもない「自分用note」なのだから。
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