見出し画像

奇跡の人(はじめてのえんげき)

初めて「演劇」を観に行った。

歌を伴わないストレートプレイ。
今までオペラは数十本観てきたし、ミュージカルや宝塚(ミュージカルの一つとも言えるが)も、自分の専門分野とはジャンルは若干違えど、齧ってきたつもりだが、何となく触れていなかった「演劇」。

観に行ったのは「奇跡の人」という作品。全盲で聾唖の少女ヘレン・ケラーとその家庭教師サリヴァンの話というと聞き馴染みが良いだろうか。

同い年でマルチな才能を持った高畑充希さん。NHKで不定期にやってる「おげんさんといっしょ」という番組で、生き生きとしている彼女を見て「是非生で見てみたいなぁ」とここ数年思っていたのだが、彼女がサリヴァンを演じるこの公演のチケット情報をみたら、追加席が解放されたタイミングだったようで、1席だけ空いていたので「今だ!」と思い、迷わずポチった次第。

会場は東京芸術劇場プレイハウス。
大学時代に学内の演奏会や、合唱の本番で幾度となく訪れた芸劇。その敷地内に演劇用のシアターがある事は、何となく知っていたけれど行くのは初めて。正面の大きいエスカレーターではなく、小さい方のエスカレーターを登った先に、そのプレイハウスはあった。

チケットをもぎって中に入ると、ロビーは老若男女問わず人でひしめき合っている。
男女比も同じくらい。1人で来ている人もいればご夫婦でいらしてる方、若い女の子のグループもいれば、杖をついたおじいさまもいらっしゃる。
普段私が出向くクラシックコンサートやオペラは、どうしてもお客様の年齢層が高くなりがちだ。若い層もいるが、いかにも音大通ってますという雰囲気の学生さんや、音楽やっているオーラバリバリの、なんとなく身内感ある方が多く、所謂一般の方は少ないように思う。

余談だが、最近出向く機会の多い(こちらは完全に趣味だけど(笑))、フィギュアスケートの試合やアイスショーになってくると妙齢のマダム方の割合が極端に高くなってくるので、これはこれで偏りが大きい(笑)。

観客に老若男女問わず人が多いというのは、その興行を続けていく上で不可欠な事で(もちろん集客バランスが偏っていても常に一定の固定客がつくような興行もあるが)、親から子、そして孫の世代まで語り継がれるようなジャンルにしていくには、時間とお金がかかる。この「奇跡の人」という戯曲は、日本で初演されてから50年以上経つそうだが、役者の顔ぶれは変われど、常に広告塔となりうる役者をキャスティングし、膨大な広告宣伝費を掛けながらも継続できている、「とても理想的な興行」だとエンターテイメントの端くれに立つものとして、羨ましく感じた。

さて、シアター内部に入る。
ロビーがひしめき合っていたのだから、当然客席も満席だ。後で調べたのだが、900席弱あるそう。3週間弱の公演スケジュールで、週1の休演日以外は毎日上演。1日2公演の日もあった中、全20公演の客席を埋める。ついつい自分の事に置き換えて考えてしまうが、気が遠くなる。そして、客席の事以上に、そのスケジュールで舞台に立つその労力たるや…。まだ始まってもいないのにこの公演に携わる全ての人に、感服していた。

開演ブザーが鳴る。
そこでふと、浮かんだ疑問。
「いつ拍手をするんだろう…?」
演劇なので、オーケストラはいないし、当然ながら指揮者もやってくる気配はない。
緞帳のない舞台だったので、もうセットは見えている。
とりあえず、いつでも拍手出来るよう、両手をフリーの状態で待ち構えていたが、みるみるうちに客電は落とされ暗闇の中になった。
次の瞬間、舞台にうすらぼんやり照明が入り、雷のSEが聞こえ、舞台の幕は上がったようだ。

「拍手して始まらないんだ…。」
という、初観劇(演劇)の第一の感想。

舞台の作りはいたってシンプル。
洋風の館に見立てた、いくつもの窓に囲まれた壁。そして舞台の袖側にはドアが一つずつ。下手側のドアは少し奥に、上手側のドアは舞台のツラ側に。
実は、この二つのドアは、下手側のドアから出たら、上手側のドアから別空間に出られるという設定で、舞台装置を入れ替える事なく、違う空間にいる事を視覚的に見せる事ができる、演出的な作り。「これ、オペラでも使えないかな?」と思った。

ただこれ、役者は大変だ。
台本上は、別の部屋にいてセリフのないシーンでも、舞台に出ていないといけないシーンが多いのだ。何かしらの演技が必要だったり、ストップモーションだったり、動きはその時々で違うが、演技をオフにする瞬間が圧倒的に少ない。もちろん水なんて飲めない。
その上、下手と上手のドアが繋がっている設定の時は、下手から出たら(恐らくダッシュで)上手側に回り、上手のドアから何事もなかったように、出てこないといけない。
舞台上での出来事を自然に見せるためには、役者さん方とスタッフが裏でとんでもなく人間離れした努力をされているのだろうと、推察された。

では、その役者さん方について。
ドラマで見た事がある方もいれば、初めて見る、所謂舞台専門の方も。皆さん生の声でお芝居をされていましたが、その明瞭さたるや。常に叫べば言い訳ではなく、囁くような声でもシアター内に飛ばさないといけない。第一、喉でがなっていたら、全20公演なんてこなせやしないだろう。
では、どうするのか。
腹式呼吸は大前提のもと、息の量や勢い、子音の強弱で調節しているように感じました。
「あ、歌と同じだ。」と。
また、特に高畑さん演じるサリヴァン先生は、捲し立てるような台詞が多いのだが、その節回しはどことなく音楽性を感じた。プログラムのインタビューを読むと、彼女は事実、音楽的に捉えている部分があったよう。

一方、表現するという観点で考えると、今回の出演者の中で人一倍欠けているものがある人物がいる。
ヒロイン、ヘレン・ケラーだ。
言葉をほとんど覚える事なく、視力、聴力を失ってしまった彼女は、言葉を知る事なく身体だけ成長してしまう。
そんな彼女を憐れに思うばかり、家族は誰一人、彼女を躾けることが出来ないまま育ててしまう。座って食事をする事さえも出来ない。
言葉を話せないから、知らないから、彼女は感情の全てを身振り手振りで表現しようとする。
それは、時には暴力的に。
ただ暴力的に振る舞うのとは違う。視力がないので目に力を入れる事が出来ない。
私たち人間は、身体に力を入れようとすると、自然と目力も強くなるものだが、視力も聴力もないヘレンを演じる時は方向性が定まってはいけない、という壁が付き纏う。
ヘレン役の平さんは、彼女を演じるのにどれだけの時間を費やした事だろうか。

あまり内容の話はしないつもりだったが、あまりにも印象的なシーンがあったので一つ。
前述したように、食事さえまともに出来ないヘレンに、サリヴァンが「スプーンで食事をさせることを教える」というシーンがある。
一見、シンプルなシーンに思えるが、1秒でさえじっとしていられないヘレンは、サリヴァンが皿を置いてスプーンを持たせても、次の瞬間には投げ出してしまう。負けじと、サリヴァンも次なる皿やスプーンをどんどん差し出すが、瞬間でヘレンはあらゆるモーションで抵抗する。
一言で言って「大乱闘」。
このシーン、1分とか2分ではないのだ。測ってないし、測ることも憚れるくらい見入ってしまったので、正確な事は言えないけれど、トータルで15分程だっただろうか。
その15分を作り出すのに、どれほどの稽古を積んだのだろうか。
自分の動きはもちろん、相手の動きも全て把握して、その動きを身体に叩き込む、綿密な稽古を繰り返す必要がある。
例えばオペラでは、中世〜17-18世紀ヨーロッパが舞台の場合に決闘のシーンが出てくる事がある。所謂殺陣のシーンとも言えるが、大きなプロダクションでは殺陣指導の先生がついて、そのシーンの為の稽古の時間が設けられる。
より本格的に演技を見せる為の稽古でもあるとは思うが、それ以上にお互いに怪我をしない為の稽古と言える。レプリカとは言え、剣を交えるのだから、闇雲に振り回しては事故が起きかねない。
その剣が、先述のシーンではスプーンであり、皿でありそして、ヘレンの全身の力ずくの抵抗なのだ。平ヘレンの一挙一動を、全力で受けつつも交わしてく高畑サリヴァンは、必死ながらもどこか笑みさえ携えている。
この大乱闘という名の大舞台を心から楽しみ、そしてそれをサリヴァンという役の中に落とし込んでいる、高畑充希という役者の真髄を見ているような不思議な感覚だった。

怒涛のワンシーンが終わって暗転。
すると、自然とどこからともなく拍手が湧き上がってきた。
「ああ、これも同じ。」
オペラで素晴らしいアリアの後は、ブラボーの一声(今はコロナ禍で出来ないのが少々寂しいが)や拍手が自然と出てくるものだが、音楽でなかったとしても、凄いものを見せてもらった時、観客からしたら"この感動を伝えたい"という衝動が起きないわけがないのだ。

2回の休憩を挟んで計3時間半程の上演。
なんとあっという間だったか。
でもとても濃厚な、フレンチのフルコースに、デザートプレートまで完食したかのような充足感。
そう、この濃密な時間は毎日は受け取れない。けれど、半年に一回くらいの贅沢が出来れば嬉しい、そんなボーナスのような時間。
それが、私の初観劇の感想だ。

もしかしたら、別の作品を見たら、別キャストで見たら、また全然違う感想を持つかもしれない。
でも、きっと初観劇がこの「奇跡の人」で良かったと断言できる事は間違いない。

大変だ。
オペラやコンサート(こちらは半分お勉強も兼ねていますが)、たまのフィギュアスケート観戦に加えて、時々観劇も行きたくなってしまう。
(お金の掛かる(笑))趣味がまた増えてしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?