春の死
「あぁ。死んでしまった」
新年から続いた多忙を乗り越えて、春の色が見え始めた3月上旬。やわらかい日差しを窓越しに感じながら、吐き出す息と一緒に自分の中の霧もやも吐き出され、肩の力が抜けた。
ここ最近は忙しかった。
昨年会社を辞めてからの半年間。今まで出来なかったこと、挑戦してみたかったこと、勉強してみたかった事、惰眠を貪ること、会いたい人に会うこと、今までの自分が選ばない選択肢を敢えて選んで自分なりに未知を消化してきた。
どこにでもある、よく聞く、迷子的自分探索と簡易的くだらない挑戦だ。
側から見ると何をしているのかわからないだろう。積み上げもしなければ、どちらかというと放蕩しキャリアを破壊している。社会的に完全に迷子だ。
それでも自分としては良かった。目的地もわからないまま頑張れるほど、子供ではなくなってしまった。それなのに取り急ぎの暫定解を出す度に、拭えない違和感に目をつむりながら、解らないフリをし続けられるほど、オトナもできなくなってしまった。
そんな私がこの半年間探していたのが「種火」だった。冷えてしまった自分の心を熱くしてくれる「種火」探しをずっとしていた。
そんな最中。
ふっと肩の力が抜けて「死んでしまった」と口について出た。
半年間集めてきた「種火」の火が、脈絡なく消えてしまった。
暖かい春の一コマ、幸せな青空のもと、
私の種火はあっけなく死んだ。
***
自分以外対して「興味」を持った瞬間「関係が生まれる」
そして、興味がなくなった瞬間、灯台だと思っていたものは色を失う。
私の中で死んでしまうのだ。
なんて悲しいんだろうと思った。
***
春の空はとても爽やかで、暖かく、やわらかい日差しだった。
「死んでしまった」と吐き出した瞬間、言いようのない開放感に包まれた。
自分が集めていた種火は多分、執着だったのだ。
自由を求めながらも、何かを成さねばいけない、成果を、見栄えを、どう思われるか、他人の目がずっとあったのだと思う。
私の中で死んだのは「執着」だ。
死んだ瞬間の切なさと開放感。
穏やかな春色のように自分の心も清々しく、さめざめしかった。
私は何を悲しんだのか考えた。
死んだことが悲しかった。それ以上にとても悲しかったのは、宝物だと思っていたものが、宝物ではなかったことだ。
この侘しさをみんなはどうやって乗り越えて生きているのだろう。こんな想いになるなら最初から生まれなければ良いとさえいつも思う。
オトナになった私が集めていたのは宝物ではなくて執着だった。
幼い頃集めた宝箱に執着を詰め込んで、宝箱の中身をどこかに隠してしまった。
これから先の命の使い方は、もう一度、宝箱に宝物を入れる時間にきっとなるのだと思う。
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