私の生きる日常にナレーションはつかない

ドラマ、映画、芝居、何でも好き嫌いせず見てきたつもりでも、ミュージカルだけはしばらく苦手な時期があった。

歌に乗せて朗々と心情を表現することが、不自然に思えたからだ。ハキハキとした歌声で苦悩を打ち明けたり愛を語る登場人物の姿に、一体どうして、客席の私は白けてしまう。

「あんなふうに朗々と想いを伝えあえたら、どれだけ楽だろう」。演者たちの歌声に元気をもらいつつも、帰路にはそんなことを思っている。

なぜ私はわかりやすい演出や説明的な演出に萎えてしまうのだろうか? その答えを紐解いたのが、最近NetflixAmazon Primeで配信が始まったドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』だ。

このドラマは、肝心なところをわかりやすく演出していない。背景や理由を説明したくなりそうなところを、説明しない。私には、それが心地よかった。なぜだろう?

それは、私の人生にはナレーションもスポットライトもないからだ。

辛い時に思い出すあの人の言葉、弱気になるといつも自分を励ましてくれるあの人の言葉。かけがえのないやりとりは、ありふれた平凡さの中にある。

そんなメッセージをこのドラマから受け取り、過去を含め自分の人生がふわりと明るくなった気がしたのだ。

大豆田とわ子という魅力的なヒロインの元夫たち。彼らの苗字は、日本で最も多い苗字ランキング常連の田中、佐藤、中村。

平々凡々、ありふれた姓(田中さん、佐藤さん、中村さん、すみません!)の彼らは、誰よりもとわ子に優しい。

とわ子がしんどい時、それぞれの距離感で彼女を励ましている。

他方、ヒロインのとわ子が作中にデートした相手の苗字は御手洗、小鳥遊、甘勝。惚れた腫れたをひっかき回す相手は皆こぞって珍しい苗字をしている。どことなくミュージカルっぽい名前だ(御手洗さん、小鳥遊さん、甘勝さんすみません)。

元夫たちととわ子の関係は、ミュージカルのようにデフォルメされたものではない。

このドラマは、誰かが誰かにやさしくするのを淡々と描いている。気を抜いていると、視聴者もその心配りを見過ごしてしまうだろう。実際、私は2回目の視聴で登場人物の思いに気づき、改めてボロボロ泣いてしまった。

とわ子と元夫たちは、互いの良いところも欠点も知っている。知った上で、相手の良いところを信じようとしている。相手が傷ついたことを汲み取って、また笑顔になって欲しいと、優しい言葉をかける。

この淡々とした、さりげない描写が私の心を激しく動かす。

なぜなら、私をとりまく優しさもきっとそのように存在しているから。だから、私はこんなに泣いてしまう。

過去に気が付けなかった数多の思いやりを、あるいはかけるべきだった優しい言葉を再発見し、こんなにも泣いてしまうのだ。

誰かが私にかけてくれた優しさや、彼・彼女らが傷つき悲しむ様子は、日常でデフォルメ演出されたりしない。ナレーションがついて「彼はその一言に深く傷ついた」なんて解説してもらえることもない。

淡々と、その人の生きた様がそこにあって、ともに過ごした人がそれを受け取る。時に見落とす。それが、私たちのリアルな日常だ。

『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマは、日常に限りなく近い形で登場人物たちの思いをたどることができる。

とわ子をとりまく登場人物たちはみんな優しい。彼女の背中にそっと手を置くように傍にいる。そして、それを受け入れるとわ子自身も優しい。

もし自分がこの人の立場だったら、同じことができただろうか。弱点を受け入れ、相手のいいところを認め、ゆるし合うことができただろうか。

この作品を観た後にふと自分の過去を振り返って、ある人の優しさに気付く。ゆるされた瞬間、誰かの言葉で前をむけるようになった瞬間を思い出す。

語られなかったこと。
デフォルメされなかったこと。

私の人生も、平熱のやりとりに溢れている。

さりげないことをやり過ごさず、どうでもいいことを脚色せず、とわ子のように日常を正直に生きていけたらどんなに幸せだろう。

そう思い巡らしながら、主題歌が収録されたアルバム『Presence』を聴き余韻に浸る日曜の夕方を過ごしている。













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