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ことばと受容体、または熟成

 格言や金言めいた言葉、説法の類い、それらは届くべきときに必要に応じて響くもの。
 普遍性を帯びるのと引き換えに極限まで短く削られた文章は、翻って別の解釈を生み出し易い。
 自らの内的世界ですら、長い道のりの中で『決してしたくはなかった経験』という痛みを抱えたとき、よく耳にする言葉でさえもグニャリと変容してしまう。そう、ダリの時計のように。
 

 自ら困難を糧にするために掲げる言葉は、そのまま他人に適用しようとすると刃になることがあるのだ。
 たとえば、「すべてのことに意味がある」も、他者に向ける言葉としては危険を孕んでいたりする。
 相手は災害や疾病、事故などで大切な人を亡くしているかもしれない。または、相手本人がそうした深刻な困難の最中にあるかもしれない。

 がんサバイバーに向かって「でも、キャンサーギフトが」なんて言うのはわりと地雷、みたいなこともあるわけで。
 得るものがあるとしてもだ、代償が、あまりに大きすぎるのだ。
 そしてそれは、がんに限った話ではない。

 大きな痛みからの回復、消化には時間も労力もかかる。その最中でプレッシャーがかかれば、長引く可能性がある。それを実感するためには、それなりの辛い経験が必要かもしれない。
 ──もしかしたら、幾つもの。

 大きなおおきな、決して治ることのないと思った傷が、長い年月をかけて少しずつ目立たなくなっていくこともあるだろう。または、いつまでも生々しいかも知れない。その経過はそれぞれ季節を幾つも重ねてみないとわからないこと。
 

 だからこそ素敵な言葉であれど、そこから自らがかつて何を受け取っていようとも、「いつどんなときでも」他者に向かって使えるわけではないという認識は忘れずにいたい。
 
 明けない夜と戦い続けている人、治らない傷を抱え血を流しながら生きている人もあることを知るたび、主語は小さく重くなっていくはず。その主語の小ささをこそ、わたしは大きなものとして受け取るのだ。
 
 

 ◇ ◇ ◇

 
 パレアナ効果ではなく、つらくかたちなきものをかたちあるもの、実りに変えようとする孤独で内なる闘いがいつか実を結ぶのだとしたら、それはそれで尊いこと。ただ、焦ったり無理だけはしないようにと祈るばかり。

 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」