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たとえばの話

「がんっていっても、早期なんでしょ。良かったね。」

遅いよりは早いほうがいいに決まっている。
でも、良かったにはならない。
無い物ねだりであっても、何もないのが一番いいから。

そこまでの経緯って、ある。人それぞれ。

たとえば、

一人暮らしすら許されない籠の鳥だがそこそこ不自由なく育ってきたのに、初めての就職がパワハラもセクハラも男尊女卑もある上に相当激務な状況で、世間知らずが世間デビューしたくらいじゃ手に負えないのにモテるからって同性目上にツンケンされちゃって、世渡り下手だから居心地悪いまんま上手くいかなくなっちゃって、生真面目なものだから酒にも煙草にも溺れることが出来ず、まあそれでも優しい人もいたりして付き合うも実はロリコン、絶望して別れて仕事しているうちになんだかんだであれこれあって別の穏やかな人と結婚なんか決まっちゃって、幸せやったね感が出たところで相手の家にかなり重めの新興宗教問題があるのが発覚、超直前だったもんだからそのまま進むしかなくなっちゃって、当然のように揉め事に巻き込まれた挙げ句に嫌がらせで四面楚歌、さらに義家族から暴力を受けちゃってからがら逃げて、PTSDになって記憶欠けたりしつつ徐々に落ち着いてきたところでやっと社会復帰したら家族の遺伝性難病が発覚、自分は原因不明の体調不良そして入院、別の身内が不慮の事故、幼い頃から良く知る人などを相次いでがんで亡くしたところで、さらに家族に心臓病をトッピングでおまけにうつまでアンハッピーセットされたうえ、今度は自分が早期がん、さらに他にも病が発覚

かも知れないじゃない。世渡り下手なのがどうみてもネック。
小説や漫画なら編集者が「設定盛り過ぎ!」なんて止めてくれるようなことも、残念ながら現実だとそうはならない。

それに、他者に話す時は、この中からもっと掻い摘まむはず。慎重に、どこまで伝えてどこまで伝えないほうがいいのかを考える。

隠れた苦悩や困難があるかなんて、外から見てもわからない。何もなかったように笑えば、何もない「ということ」になる。どちらがよりつらいとかいう風に他者と比べる話でもないが、表に見せて(見えて)いる部分で時にジャッジされたりする。
わざわざ悲劇のヒーローや悲劇のヒロインぶらなくても、人生には悲哀が必ず含まれる。

見る目が云々だとか自分で選んだ道でしょうっていっても、千里眼で未来予知できるわけじゃあるまいし、すべてを選びとることなんて無理。世の中に不可抗力はある。一度も間違わない人間は、多分いない。

で、上のダラダラした文章に出てきた人間に関わっている別の人だって、その人から見たらびっくりするほど色々な事情やらバックグラウンドがある。
そう、あるんだよ、それはもう絶対に。どの立場のどの人にもある。程度こそ違えど、受けとめ方も人それぞれだから、要素の数が少なくてもそれはもう滅茶苦茶に苦しんでいるかも知れない。

他者には計り知れない暗闇やマグマ。

閾値なんてこれも人それぞれだから、どこで持ちこたえていた堤防が決壊するかなんて、わからない。
決壊しないけれど常にギリギリかも知れない。

だからね。
他人の生き様なんて、外から上手いことなど言えない。

穏やかな人の穏やかさの裏側に修羅があったり、冷たそうな人の裏側に癒えない大きな傷があったりする。
それをなかったことになんて出来ない。しちゃいけない。

優しい人が強いっていうのは、一皮剥いた裏に山積みの何かが隠れている可能性を知っているからだと思う。
イマジネーションが否応無しに発達すると、可能性が見えてしまうから。

それでも、だからこそ、優しさをもって生きようとすることの意味。
 

If I wasn't hard, I wouldn't be alive.
If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.
──Raymond Thornton Chandler

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」