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冷たさと精度

物事を見ようとする時、精度が必要ならば解像度を上げていくことが不可欠になる。
情報量は増え、時として、重箱の隅すら見逃せないという状況に陥る。脳はフル活動でそれらを解析する。

大変だ。

だからといってざっくりとした見積もりから手っ取り早い指標を決めてしまうと、正確さはたちまち失われてしまう。
 

人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない。
──ユリウス・カエサル

確証バイアスを前提にしてしまえば、都合のよい情報しか見えなくなる。自論を展開する際には、一番気をつけなければならないことのひとつだ。
また、認知的不協和により事実を歪めて捉えてしまう可能性にも、気をつけておかねばならない。

サンプルをどこにとるのか。
フルスキャンでいくのか。

サンプルをとるならば、サンプリングバイアスを冷静に排除していく必要がある。
客観性をどれだけ保持できるか。

(可能な限り)フルスキャンをするならば、見たくないものや都合の良くないものを見る覚悟が必要だ。辻褄が合わない可能性もある。
自らに冷酷になれるか。

つまり、どちらにも適切な冷たさが要るのだ。

 
 ◇ ◇ ◇
 

医療に関する情報を得ようとするならば、これらが難しいようでいて、実はある程度までならばそうでもない。
診療ガイドラインが既にあるからだ。

ガイドラインに記されるためには、膨大な時間と費用を元に積み重ねられた研究、そしてその成果=エビデンスが必要になる。
つまりガイドラインを読むということは、数多の手によって予め解像度を上げ、ノイズを丁寧に除かれた情報を容易く手に入れられることを指す。

逆に言えば、ガイドラインに言及されておらずエビデンスも不明な言説は、解像度やノイズの処理をまだしていない(もしくはその途中の)ものということになる。

宝石を手に入れようとしたとする。プロの鑑定が済んだ品の並ぶ宝飾店に行くか、本当に望みの石が採れるかどうかわからない鉱山で掘るか。それくらい違う。

 
 ◇ ◇ ◇
 

精度を上げるということでもうひとつ、大事なことがある。

もしも様々な違いがある個を含む大きな集団のうち、たったひとつをサンプルにしてしまうと、誤った解釈が広まってしまうことだ。

わたしは、がんサバイバーである。
これは正しい情報。

わたしはがんサバイバーだが、がんサバイバーは悲しみを力にして生きている。
これは本当だろうか。
いや、常に真であるのか?

その根拠は?

一見すべてを知るような言葉、理解を求めるような主張のうちに潜みがちな代表者的視点。
でもそれが、大規模アンケートをとったわけでも研究に導き出された答えでもないのならば、n=1の拡大解釈になってしまう。

自らを(もしくは誰かを)ある集団の代表として切り取り、取り扱ってはいないか。
そこに総意は存在するのか。
誰の、どれほどの委任があるのか。
そのために取り残される人はいないか。
揺らぎのあるもの、感情や体調といった類いのものを、紋切り型にしてはいないか。

謙虚に生きることは、正しさを後押しする。
だからこそ、「実際に経験していることであっても」言葉の根拠やブレがないかを自らに問う姿勢は必要だと、肝に銘じている。
正しいことに語弊や誤解を混ぜることは、白い絵の具に黒をほんの少し混ぜるようなものだ。
慌てたところで、取り返しがつかないことだってあるだろう。

 
 ◇ ◇ ◇
 
 
わたしは、どこまでもn=1の世界を生きている。
だがそれは悲観するような事では、必ずしもない。
分かり合えない部分、底知れぬ溝があるからこそ、興味を覚えそれを知りたくなる。知識欲、未知という誘惑。

ただの私論に過ぎないが、共感は十把一絡げからではなく、n=1から生まれる。
「全米が泣いた」のは「1+1」についてではなく、「ある愛の実話」であったりするように。

昔見たCMのキャッチコピーのように、違いのわかる人でありたい。

冷たさとそこに裏打ちされた精度が、あたたかさを生むこともきっとある。
わたしは、そう思う。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」