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救いと好きのかたち

 Twitter上の様々な呟きを辿って、思った。ご本人発信のシェアはさておき、紛争や戦争と個人名をリンクさせたくはないな、と。

 たとえば、平和を祈る曲は世の中に溢れている。けれど、それらをシェアリングする時に、勝手に戦争と紐付けるのは何だか少し悲しい。

 勿論、どのような表現も個人の自由だ。でも推し活に他国の艱難を利用しているような風情になりかねないのでは、とぼんやり思ってしまった。そこでは確かに、血が流れているはずだから。

 ここはいま、安全だ。だからこそ、遠く離れた土地に起きていることをどれだけ気にかけたところで、到底現実味には欠ける。
 そんな中で、「この曲を聴けば平和になれます」「この本を読めば争いはなくなります」だなんて、わたしにはとても言えない。きっと、かの地にも平和を祈り穏やかさを讃える作品があり、愛されているはずなのだ。

 ただ良いものを、そっと静かに置いておきたい。ただやさしく謙虚なままで、そこにありたい。他者の文化を、思いを尊重したい。

 血生臭い現実のために作られたものではないからこそ、純粋に響くこともあるかもしれない。
 血生臭い現実に対して叫ぶために作られたものだからこそ、鋭く響くことがあるかもしれない。
 そのどちらもきっとあるだろう。あるものをあるがままで受け取って、まず自らの心に留め置こう。楔のように、碑文のように。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」