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情報と感情のあいだ(もしくは速度の代償)

 新聞・ラジオ・テレビがオールドメディアと呼ばれるようになって、随分経つ。
 WWW、ワールドワイドウェブが公開されてからも既に30年をゆうに超え、動画プラットフォームやSNSもすっかり日常に溶け込んだ。

 ここ最近の政局の流れから、所謂「マスコミ叩き」の負の側面がクローズアップされるようになってきた。10周遅い。インフルエンスの負の側面とは。少なくとも3周遅い。
 

十把一絡げの歪み


 誤報だったという知らせがネットを駆け巡るたび、または報じるタイミングがSNSより遅いとされるたびに、マスコミを「マスゴミ」と呼ぶ人たちが俄かに活気づく。
 醜悪だな、とそのたびに思う。単純に、知的態度として幼稚で醜い。職業蔑視をここぞとばかりにあらわにできる品性の無さと、人をゴミ呼ばわりできる浅ましさが極めて虚しいのだ。
 郵便屋が配達物を未配のまま処分した報道のあと、職業まるごとを十把一絡げに差別されただろうか。あるいはバイトテロ。
 自他を比較し、より恵まれていると「勝手に」判断した相手を属性ごとこき下ろす、その歪んだカタルシスに気付こうともしない。

 「自分だけの真実」を得ようとするため、自らの情報収集能力を実際以上に高く評価したいがため、またそうして得た情報を信じたいがために、他を下げてはいないだろうか。

X(旧Twitter)より

メディアの性質と特徴


 メディアにはそれぞれ特徴がある。

 新聞は新聞協会の、ラジオ・テレビは民放連(加入社)のガイドラインに従うこととなり、また業務運用上に各社独自のさらに実務的な規定を有していることがある。さらに電波媒体は許可事業であり、電波法と放送法の縛りも当然に受ける。
 偏向や誤報は許されない。このため、裏取り等の取材と編集にかかる手間と確認作業が必要となる。撮って出しという言葉がありながら、速報性には一定のブレーキがかかる。
 
 対してネットメディアにはしっかりとした法的規制がない。「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律の一部を改正する法律」「改正プロバイダ責任制限法」等はあるが、偏向や誤報に対しては民間による自主性に委ねられていると言っていい。権利と表現の自由をめぐり当事者間の訴訟により法廷で裁かれる可能性はあれど、罰則はない。
 このため、速報性に関しては強い。ネットメディアよりもさらに下位カテゴリのSNSに至っては、ソースなど示す必要は皆無であり妄想でも放流できてしまう。つまり、速報性即時性の面では一番強い。

◇正確性 オールドメディア>ネットメディア>SNS
◇速報性 オールドメディア<ネットメディア<SNS

 つまり、それらが有する性質は、大きく捉えると反比例の関係にあると言っていい。
 

報じられない真実とは


 よく「マスコミは報じない真実」といったクリシェが飛び交うのは、速報性に劣るためのタイムラグか、真実相当性がなく報じる必要が存在しなかったか、或いは既に報じているが受け手が「そもそも見ていない」かの大体何れかに該当する。
 これらの枠から外れるものとして、ニュースバリューが小さいか取材中であるものも存在する。報じられない情報提供など、荒唐無稽な陰謀論から私怨のガセネタまで、表に出ないだけで山のようにある。予め決められたフォーマットと尺の範囲内でニュースは日々流されていく。
 ネットメディアにおける事件報道(流言飛語は除く)は、とりわけYahoo!等大手ポータルサイトに掲載されたニュースを転載、下敷きまたは部分引用しているものが多く、二次報道という点で「マスコミは報じない真実」などという言葉が概ね的を射ていないことは明らかだ。
 リビングで寛ぎながら一般人が手軽に入手できる「隠された真実」など、皆無とまでは言わないが殆どありはしない。大体の場合、どこかの報によって得ているのだ。
 

即時性と潜在的責任

 
 即時的に得られるものは、インスタントである反面、齟齬や主観や誤りを過分に含む。玉石混淆の中で何をどのようにより分けるかというスキルが必要だ。プラットフォーマーやプロバイダーの責任が問われるようになってきてはいるが、充分と呼ぶには程遠い。
 他方で時間をかけて得られるものは、届くのが遅い一方で既に篩をかけ裏漉しされている。不純物が取り除かれており、場合によっては解説も添えられる。勿論、時として後者にも誤報やバイアスは混在する。専門家の解説であれ、専門分野のずれによって不正確なことすらある。
 だからこそ、より正しく深く知ろうとするのであれば、より多くの情報ソースを満遍なく比較検討する必要がある。その意味において「新聞や読まない」「テレビは要らない」、もしくは「ネットは見ない」も偏っている。

 情報はすべて、発信者がその責任を負うべきであるのは当然のこと、受信者もまた発信者の責任とは別に、取捨選択と再発信における責任を自ら負うのだ。自分の足で立つように、自分の脳味噌に常に問わねばならない。発信とは元々そういう性質のものであり、誰でも指先ひとつで世界中に公開できるようになる以前は、高度に訓練された人間の職能であったはずだ。
 誰でも発信しやすくなったことは、喜びや文化のシェアリングに寄与するだけでなく、不正の告発や是正にも役立ってきた。発信には強い力がある。だからこそ歴史や先例に学び、自らに問い他を見回すだけの慎重さを持たなければ、他の誰かにデマや偏見差別を広げる情報加害者になりかねないという大きなリスクが存在し続けてしまう。

責任者であること


 「騙された」「知らなかった」といつまでも言い訳じみたことを言っても、「そんなつもりはなかった」と弁解しても、または「正しい目利き」や「正解」を他人にアウトソーシングし続けても、離乳食を含まされ続けるようなもので独り立ちなど出来はしない。そこには真摯な反省も自省も存在しえない。

 「そんなことを言っていたら何も言えなくなる」という言葉もよく見られるが、思考停止のための詭弁にすぎない。子どもならまだしも大人であるならば、一刀両断してよい類の世迷い言である。
 大前提として、自らが自分自身の責任者であると認めそれを引き受けることで、信頼がはじめて成り立つのだ。発信には常に責任が伴う。人は間違う。迷いもする。しかし情報と及ぼす影響はワンセットで切り離せず、時には剣より鋭くもなる。そこで安直な言い訳に逃げず、繰り返さないように学び掴み取っていく姿勢こそが肝要であり、寛容と発展はその先にこそあるものだと言えよう。
 

手軽さの代償


 発信を学ぶ場所は増えた。専門学校や大学の課程も存在する。ジャーナリズムの有名専門校が姿を消すなどもあったが、ハード面の進歩もあり、発信自体のハードルが著しく下がっていると言っていい。特にYouTubeやニコニコ動画、ネット掲示板が果たした役割は大きいだろう。
 他方で、実務に足る倫理ガイドラインや法知識の重要性が広く浸透しているとは努々思えないのが現状だ。職業人ならば当然として倫理規範を執拗なまでに叩き込まれた時代と異なり、媒体が増え手軽になった一方で炎上事例は増え続けている。それは見る側のコンプライアンスやポリティカルコレクトネスに対する意識の高まりからだけではなく、発信者の裾野が広がりきったことで本来なら発信の場には到底立てなかったような層が増えたことと無関係ではないだろう。プロ意識が著しく欠如していても、または足りていなくても、スマートフォンやパソコンから世に飛び出せる。何者かになったような錯覚を味わえる。


人間の「ネタ化」とハック


 これまでならばアンダーグラウンドに閉じこめられていた差別偏見の感情や知識不足による戯言も、知名度や発信力さえあれば多くの支持を得られるようになってしまった。より強い言葉、より耳目を惹くセンセーショナルなゴシップ、より際立つような誰かのプライバシー。すべては「ネタ化」「モノ化」され、社会的弱者や被害者さえもその存在をいいように利用される。
 あいつは死んで当然だったのだ、不遇は当然だ、病は報いだ。何故ならば。そうした人倫に悖る発言でさえも、大手を振ってメインストリームに躍り出られる。
 陰謀論や、国家資格持ちの似非医療が脚光を浴びる。幾つかが誤って取り上げられる。そのたび「オールドメディアは何をしているんだ」「マスゴミは」と真っ当な批判に揶揄が交ざりあい、結果的により正しい情報すら一緒くたにかえりみられなくなる。その繰り返しによって、メディアと協力し誠実に発信してきた専門家のアドバンテージもまた、削られてきた。どうせマスコミのせいにすればいい、という逃避のための構造が出来上がっている。
 3大メディアよりネットメディアが人気の職業になった。志望者の資質が落ちたり人手不足が加速したならば、いずれは増大するアテンションエコノミーの中で深刻な社会的損失となっていくだろう。実際、もうこの数年来そのような流れの中にあると言っても過言ではない。

 発信の影響力を政治や反○○といったものに悪用する人間が出てきた。似非医療や不安商法は、他者の困難を金に換え続けている。ただの塩や水、オブジェが魔法のように売れる。偏見とスキームによるハック。
 ごく少数のSNSアカウントにより多数の人を煽動できるということが、コロナ禍でも研究により明らかになっている。昨今の地方首長選におけるヘイト事例も同様で、ハッシュタグによる意図的な拡散は力を持つ。
 データやエビデンスによらない言説が助長されてきた結果、福祉への嫌悪や躊躇から闇バイトへと向かう流れができてしまった。蔓延する歪んだ自己責任論。水際作戦。強盗殺人で逮捕された若者が「そこまで落ちたくなかった」と語る意味を、軽く捉えてはならないだろう。
 広がり続ける格差は、再び悪用されはじめた。高齢者と若者、労働者と非就労者を分断するような数々の言説。さも高齢者がみな若者を搾取し裕福であるかのような幻想が、犯罪のハードルを下げた可能性について考えている。これもまた反社会的組織によるハックだ。かつてホームレス狩りやオヤジ狩りが社会問題化したように、世の中は再度ヘイトクライムに染まりはじめた。
 今日の被害者を生んだのは、偏見に興じてきたひとりひとりなのだ。指先ひとつで、見知らぬ誰かを殺した。誰しもその重みから目を逸らすべきではない。

 

分断をより分けること


 では差し迫って出来ることは何か。
 それはオールドメディアと揶揄されがちな3大メディアが継承してきた「情報の精査」と「発信の責任」をひとりひとりが意識することだろう。日々の中で意識してみるだけで確実に何かが変わっていくはずだ。
 得た知識をそのまま請け売りで再放流しないこと。他者に思考を明け渡さないこと。都合のよい情報ばかりを集めないこと。わからないことがあると認め、場合によっては態度を保留できること。言説の裏付けとなるデータを、公的機関に求めてみること。複数の視点を持ち、想像力を働かせて、その上で自らの意思と思考を持つこと。
 自分の中の篩で、丹念により分ける。鮮やかすぎるものは宝石ではなく、イミテーションかもしれない。そうしたものを持ち上げてさも宝石であるかのように宣伝しないこと。妬みや憎しみ、他者からの評価に踊らされないこと。


 長くTwitterやnoteで、折に触れて情報と発信について言葉を紡いできた。華々しいキャリアなどなくとも、かつてマスメディアの内部にいたからこそある程度わかる人間が警鐘を鳴らすべきだろうという考えからだ。使命感と呼ぶほど大袈裟なものではないにせよ、思う都度に書き遺す意味については何度も振り返ってきた。
 ずっと危惧してきた。ずっと恐れてきた。わたしひとりに大したことは出来ない。身の程知らず、それは重々わかっている。わかっていてもすべきこと、出来ることはあるかもしれない。無意味なトライでも、たったひとりの目に触れるだけでもいい。自分にはコントロールできないことばかりの世の中だからこそ、人は次々と言葉を生み出しひとりきりで紡ぎ続けてきたのではないだろうか。いつか伝わる時のために。

 これはスキルの話だ。誓ってもいい、決して、優しさの話などではない。

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なつめ
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」