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推し活を押し喝にしないために(Twitter等SNS上での問い合わせについて)
敢えて誰の何とは限定せずに書く。
音楽を雑多に、思うまま気楽に楽しんでいると、いつの間にか「古参」「よく知っている人」とのイメージが付与されていることがある。
それはそれで好きなように思っていただいて全く構わないのだが、ことその界隈で揉め事が発生した場合、何故か問い合わせや意見を求めるコメント(その殆どはDM)が数多く寄せられることがある。
そしてその大半は、こんな酷いやつがいるから加勢してくれといったニュアンスが色濃いものだ。正直、困る。困り果てる。
ファン同士の諍いに巻き込まれるつもりは毛頭ない。口を出すのはごく稀だ。基本的に関わり合いたくない。
それは音楽をたのしむことに寄与しない。真逆の在り方だ。
Twitterは所詮短文投稿サイトだ。そこからでは計り知れないものや読み取れないものなんて、腐るほどある。140字の連なりで、ひとりの人間のどれほどのことがわかるというのか。まったくもって烏滸がましいにも程がある。
好意的に受け取るか、嫌悪感で受け取るかという違いは、そのまま内なる自分の反映でしかない。感じ方は内面の鏡だ。
しかも、好感または嫌悪感どちらに振り切れていても、ただの主観を塗りたくったにすぎない。
見えない物を見ようとする誤解にぬるりととらわれ、見えるものも見えなくなる。
それは本質だろうか?
どのような見方をしてもすべてを掬い上げ、また汲み取ることができないと知っているかどうか。
わからないことをわからないままに受容する、受容できなくても時の流れをひとつのスパンとして捉えられる。それを日々スマートにできるのが大人というものだろうと、わたしは思う。
副次的なことばかりにとらわれて、誰かの揚げ足をとるために両手が塞がってはいないか。
思い込みにより何がしかの言質を取ろうとして、血眼で自分の解釈に沿うような文字列を漁ってはいないだろうか。
何より、誰かを貶めたり傷つけたりすることに喜びを感じてはいないか。理性が鈍麻してはいないだろうか?監視と管理を自らの職務とし、歪んだ正義に酔っ払ってはいないだろうか?
相手が血の通った人間であり、感情があることを忘れてはいないか?
わたしは誰の立場にもぴったり重ならないし、うんうん頷くばかりでも否定してばかりでもない。
先走って言葉の刃物を振り回すような真似も一切したくない。
揉め事があったらしいそのたびに色々尋ねられたりするのだが、わたしは何でも知っているソロモンの知恵のような大層なものでもない。もとより、一日中張り付いて何が起きているのかを逐一観察するほど暇でもない。仕事も、他の楽しみもあるのだから。
だというのにもかかわらず、答えられない事柄があると
「逃げるんですか?」
などと敵意をこちらに向けてくる人間もいる。認識が歪みきっている。こうなると、その人にとって音楽などは二の次三の次なのだとしか思えない。
「スペースで何かありましたか」
これもよく聞かれるが、時々勘違いされているものの、わたしは素人さんのスペースには殆ど(nearly equal)顔を出さない。
聴くのはミュージシャンか、情報発信に長けた医師か企業くらいのもの。無音の秒数が気になってしまうし、見たいもの聞きたいものがありすぎて暇がない。
そこで何があったのかなど聞かれても、知り得ないので意味がないのだ。
押し付けがましい愛とやらは、裏返せば呪縛ではないのか。誰かにヨシヨシされないと歩けないくらい、あなたの推しやそのクリエイティブチームが間抜けだとでも言うのか。
そこに依存してはいないか。そうすることでしか自分を保てない、生を実感できないのならば、必要なのは適切なケアだ。
まず自らの足元からしっかり見てほしい。推し活を押し喝にして、推しの名のもとに誰かを傷つけてしまうその前に。
なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」