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せめて、せめないで。

ある程度人生を歩いてくると、周りも同じように毎年歳をとるものだから、自然と曇り空のような話題が多くなる。
たとえばわたしなら、乳がんなど。Aさんは、ほかのがん。Rさんは、だいたい話すのは血液疾患について。
そんな具合に、みんな健康や病気についての話題を幾つか抱えている。

誰かの一言が発端で、ちょっとした患者会のような様相を呈することもある。病気はバラエティーに富むのだけれど、持ち寄った困難を少しずつシェアする。同病ではないから、病の軽重をくらべることも殆どない。
多分、それで心が軽くなる人もいるんじゃないかな。

ただ、ちょっと場が違うときなど、これが上手くいかないこともある。

「あの時、休んでしまって非常にご迷惑を・・・・・・」
「そういえば○年前は、体調を崩してしまって申し訳なく・・・・・・」

するとドミノのように、僕も私もと謝罪ラッシュになるのだ。

それ、やめにしませんか?

わたしがまだ通院中だからこう書いているわけではない。
やめにしましょうよ。
みんな、好き好んで病気や怪我を背負うわけじゃない。後ろ髪ひかれるような、後ろめたさに目を伏せるような、そんな思いをどこかに抱きながら日々休養したはずだ。

でも、それを引き摺るのは、次の人のためにはならないんだ。

病気や怪我は、はっきりと予告なんてしてはくれない。とても理不尽で、不親切な存在だ。
もしも他の誰かが病気になった時、延々といつまでも謝り続ける先人を見てどう思うだろう?
休みにくさから、病気や怪我が悪化することはないのだろうか?
その我慢は必要なのか?
とても勤勉なわたしたちは、時に必要と不必要を見間違えてはいないだろうか?
人前で自らを責め続けること、または責め続けているかのようなポーズ、それは誰のためなのだろうか?

出来るだけ早く気付く。気付いたら、出来るだけ早く休んで病院を頼る。そして、出来るだけ早くに治療をはじめる。
誰しも、それが必要だと思う。結果的に本人のためにも、周囲のためにもなる。

では謝罪ラッシュに渦巻く、後生大事に取っておいた古い洋服のような、樟脳の匂い漂う罪悪感の塊は誰のためなのだろうか?

せめて、公の場で自らを責めることをやめてみませんか。
次の誰かが、心置きなく休めるように。ちょっと明るい未来は、意外とそんなところにもありそうな気がするのだ。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」