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表現と自由と発信と

「ポエム」という言葉が侮蔑的に使われるようになったのは、いったいいつからなのだろう。
ありふれた青春や理想を現代の視点からひたすら明るく描いた文章、というかなり狭義の表現において、それが使われているように思う。

ポエムという言葉の定義すら知らない、多分詩など幾らも読んだこともないような人々によって、「ポエム」や「ポエマー」といった言葉がお手軽に使われている。
ティッシュペーパーよりも薄い有り様で。

表現の自由を訴えながら、一方で表現を乱雑に貶める人のなんと多いことか。

かつて「ロック」は不良の代名詞のように扱われていた。相当馬鹿馬鹿しい話なのだが、そんな時代があったのだ。関連でいえば、electric guitarの「エレキ」もそう。
ロックが好きなら不良、聴いていたら不良、演奏していたら不良。そんなわけはないだろう、という時代になって本当に良かったと思う。

「アニメ」や「ゲーム」にまつわるスラングもよく見掛ける。メインカルチャーであれサブカルチャーであれ、冷ややかで適当な括りからは逃れられないものなのか。

「J-POP」もそうだ。それなりに詳しい人間から見たらわけのわからない言い掛かりでしかないが、ろくなアドバイスをしない人を指して「J-POPのような励まし」などと括って揶揄する人を、時折見掛ける。
比喩であれ、個人的な励ましにエールソング(という括りにもやもやするが)を誰かが独自解釈で勝手気儘に引用することと、ジャンルそのものを、一緒くたにしていいのだろうか。
──勿論、これは反語だ。

無知は悪くない。
よく知らぬままに表現形態を丸ごと貶めることこそがよくないのだ。

これがネットの落書きならば、まあ満たされてないのだろうな、と慮ってみたりもする。
残念なのは、表現のステージで異なる界隈の人間からも、しばしばそうした揶揄が飛ばされること。

基本的に、表現形態を揶揄や侮蔑の道具にする人間は、表現者や発信者として全く信用しない。

以下、とても非科学的な言い方になる。表現の上手い下手、技巧のどうこうはあるにせよ、発表されたものはすべて誰かの欠片であり、そこには魂が入っている。
ものをつくる人、それを届けようとする人ならば、当然にそのことには多少なりとも自覚的であるはずだ。

自覚はしても、他者は否定する。
それは、「他を下げて自分を上に見せようとする態度」と根底で繋がっている。
あまつさえその偏った見方を発信で広めようとするならば、大変に残念なことだ。

大きな主語や比喩表現は、その使い方が本当に難しい類のもの。
身体に影響を及ぼす良からぬ情報を遠ざけるように、心に影響を及ぼす色眼鏡からも遠くあったほうがいい。鎖が絡みつき、嘲笑がこびりついてしまうその前に。

数歩離れて、しっかり見る。
それは本当にやさしく、似つかわしい言葉なのかを。
 
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」