見出し画像

時を待つこと

日々の暮らしのなかに、ちょっとした相談はあふれている。

お昼は何にしようか、とか。
このあとどうする?とか。
他愛もない相談事を繰り返しながら、歩んでいる。

そういうちょっとした相談、または摺り合わせの類はいい。
そうでないものについて。

書いているわたしは、専門外として大学で心理学分野、カウンセリングの基礎などを学び、単位を取得した。一応それが必要になる資格は持っていて、相談を受けることについて多少の経験はある。
つまりその程度であって、専門家ではない。
学び舎以外でも書籍などを読みあさったり、若干フィールドワークめいたこともしたが、何れも素人の範疇だ。
だから普段は余程請われるかどうしても必要と思われる状況でなければ、大きな悩みの相談には殆どのらない。
そのかわり、プロフェッショナルや窓口を案内する。
何事にも分限はあるから。

 
もし相談してきた人の中に、自分のトラウマや地雷を見つけて攻撃的になることがあるのならば、おいそれと相談を受けることはすすめない。
自分の中である程度消化して、自己と他人、または自己と他人と第三者の区別を取り戻してからでいい。

つらい記憶のせいで、坊主が憎ければ袈裟まで憎くなることはある。
「キツく言ったほうがいいと思って」の中に、他の人や出来事の影響が見え隠れしてはいないだろうか。
そのせいで、要らぬ決めつけやこじつけをしてはいないだろうか。 

相談を受けるときは、相談者と向き合うもの。
傾聴し、相手の答えを引き出すもの。
相手をコントロールするのは、違う。それはしてはいけないこと。

自分と相手の中間に、しっかりと線を引く。
視点も、これまでの生き方も、考え方もまったく違う人が目の前にいる。
自分と違う。自分が今まで見てきた他の人とも違う。勝手に誰かを投影しない。重ねない。
ひとりとして同じ人間はいないことを、思い出す。スタートラインの手前がそこ。

そして話を聞く。いいこと言いたくなっても、それは「自分にとってのいいこと」だ。
相談者の悩みは相談者だけの持ち物だからこそ、勝手に弄んではいけない。
少なくない確率で、それは薄い玻璃のようなものだったりするので、棘でつついたり大声を浴びせたりしたら壊れてしまうかもしれない。


そうやって距離を保ちながら、しかし離れずに話を聞くのは、なかなか骨が折れること。
だから、時が満ちていないのであれば、背伸びして無理することなどない。
まだ「自分が」「話を聞いてもらう」状況にあるならば、そのことに気付いたほうがいいだろう。

特にセンシティブで大きな悩みについては、素人の自分では責任を取ることができないのを認識しておくといい。
責任が取れない身でも、ただ寄り添って話を聞くことはできる。話すことで楽になり思考が整理されていくさまを、隣でやさしく見守ることはできるのだから。
そしてそれこそが、実は求められていることかも知れない。
 

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」