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リアリストは子羊の夢を見るか

 昔から、家には大きな地球儀がある。星座早見表と天体解説書、世界事典が付属しているもので、表面加工もしっかりとしている。当時としてはそれなりに値が張る代物だったのではないかと思う。
 世界事典には各国の基本データが詳細に、びっしりと書かれており、そこには人口や言語等に加え宗教の欄もあった。今はまた情勢が随分変わっているのだろうと思うが、学校に上がる前から食い入るように読んでいたのを覚えている。活字中毒にはうってつけだった。
 
 何故人は救いを求めてばらばらに分かれてしまうのだろう、と首を傾げながら。

 ミッション系の幼稚園に通っていたので、ミサや祈りというものはとても身近だった。 キリスト教文化から生まれた芸術は、今でも好きだ。賛美歌を聴くことも、歌うことも好きだった。
 でもどうしても、疑問は頭から離れなかった。どうして人は、ばらばらに分かれるのだろう。違うものを信ずる人は、その一点において裁きにあい救われぬというのだろう。そして進化論との齟齬は、何故見てみぬふりをされるのだろう、と。
 つとめて敬虔で原理的な場合の話をする。一神教に属すれば、他は正しいと見なされない。多神教に属しても、一神教からは認められない。つまり、本質的には対立構造から逃れられなくなってしまう。

 結局小学生になっても数年間は、幼稚園に付属した週末学校にも通った。通ってはいたのだが、僅か5歳で心は決まっていた。何処にも属さず、誰にも阿らず、かわりにどのような在り方も否定しきることのないように生きると。平和とは互いに尊重する個と個の間に奇跡的に成立するものであって、そのためには最早所属の欲求からも解き放たれたほうがいいのではないかと。
 以来ずっと、選択的無宗教(無信仰)である。特定の信仰を持たない立場をとる。時に馬鹿にされがちな無宗教だが、自分なりに考えた上の選択だ。

 こうして子どもの持つ素朴な可愛らしさとは相当にズレた幼少期を経て、様々な信仰を持つ人と巡り合った。所謂2世と呼ばれる人たちの生の苦しみにも触れた。そうこうしているうちに、考えはどんどんかたくなり、やがて柔らかくなっていった。信じることで救われる人も、信じることと自らの狭間でのた打ち回る人もいるのだから。

 
 わたしはおそらくリアリストと自称して差し支えないだろう性質を持つので、長く伝えられてきた聖典的なるものは、その時代における知恵の結晶として捉えている。

 例えば「血の滴るものを食べないように」という教えならば、生肉を食べることによる寄生虫感染や血液が媒介する感染症を回避することができる。「分け与えよ」という教えならば、凶作によるコミュニティの人口減少を緩やかにする可能性がある。より豊かな体型こそがステイタスとなる社会においては、非常に厳しい「食事制限」が説かれるのではなかろうか。
 つまり、それらは科学が諸々を解明し発展していく以前の世界においては、地域に根付いたある種の予言であり非常に優れた生活訓であっただろうと思うのだ。中世までは祈祷が医療のかわりになっていたように、人々を確かに救ってきたのであろう。
 掟というのは時代が下るに従いエスカレートする場合もあること、また巧妙に美徳でカムフラージュされたビジネス等もあることから、勿論これも一概に言える話ではない。

 逆に言えば、既に解明された事柄については、アップデートがはかられても(その意味合いにおいては)よいのだろう。
 仮に「一部の食べ物がすべての健康不安の根源である」という教えがあったとして、通常の摂取量と前置きするならば、これは現代では否定ができる。同じものを摂取していても糖尿病やがんになる人とならない人がいるのは、既に明らかになっているからだ。
 何かに責任や原因を求める言説は偏見にかわり、苦しむ患者をさらに何重にも苦しめてきた。がんが発覚した時、わたしも幾分「良かった探し」ならぬ「悪かった探し」をされたものだ。覚悟は出来ていたものの、辟易したのもまた事実。
 「生活習慣病」という言葉に対して見直しの機運があるのは、こうした問題を踏まえてのことと思う。

 しかしながら聖典とは不変のものだけに、そのかたちが変わることはない。ここに齟齬が生まれ、時には軛や煩悶になる。救われるはずが救われなくなるのは、現実との折り合い、柔軟性が持てなかった場合なのではないか。

 
 このような視点から、わたしは何かにどっぷりと身を委ねることはない。好きな著名人やアーティストに影響されて足を踏み入れることもない。神格化もしない。耽溺することは、思考のアウトソーシングになってしまうと危惧している。
 ○○が言ったから△△を信じる、つまり○○に意思決定を委ね、さらに△△に丸投げするやり方は、どうも自分にはそぐわない。そうして誰かに依存していては、いつかその思いが破綻した時に元々の楽しみ諸共失ってしまうだろう。

 そもそも、ジャンル問わず芸術文化を楽しんでいるものだから、そのたびに転げてのめり込んでいては幾つ身があっても足りない。一神教からは罵倒され、多神教からも呆れられ、スピリチュアル関係からは科学一辺倒な姿勢にうんざりされること請け合いなのではないだろうか。

 何かに浸ることは快楽だ。そこに芯まで浸れないのは相当に不器用だとは思うものの、自ら思考することを手放せそうにはない。
 かくしてビリーバーにもドリーマーにもならないまま、ひとりぶらりと歩くのみ。旅は続く。


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なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」