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善意とデマとド素人(4)

属性や肩書きなど、大きな主語で語ったり非難するのは意味がない。いや、リスキーだ。

大きな主語を用いるということは、大雑把な括りでしか物事を見ていないということの証左だ。プロであろうがなかろうが、または何のプロであろうが、それは真摯な態度ではない。バイアスだらけだ。
そして、実際がどうであろうが、日頃からそういう態度の人間という見方も出来てしまう。

口に出した言葉は、強化素材となりその人自身を再構成する。

大きな主語に慣れてしまうと、大きな主語で無批判に信用・信頼する危険性もまた上昇する。考え方がどんどん雑になっていく。良くない思考のくせがつく。

あの時、医師アカウント=正しいと大雑把に考えて「医療従事者がそう言っているのだから、予防的摘出が必要なのだ」と思い込む人がたくさんいたら、どうだったろうか。
「予防的摘出は不要」という報道よりも、たった幾つかのSNSの書き込みを信じていたら。

もしそれがきっかけで、外来に不安を抱えた患者が溢れたとしたら?
乳腺外科や形成外科は、再建のためだけにあるわけではないというのに。

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フォロワー4桁5桁の国家資格ホルダーに進言するのは、流石に勇気がいる。
だが誤ったり偏った情報を流したことで、影響力の大きいその人自身が信頼を失い、結果的に場の信用を毀損することは、似非医学界隈を利することに繋がりかねないと考えた。
杞憂ならいい。でも、とても怖いことだ。

わたしは訂正に奔走した日々を蔑ろにはしない。そして、訂正を快諾したりツイート削除を申し出てくれたアカウントには、感謝の気持ちを忘れない。

褒められる行いではない。わたしは出しゃばりだった。どのように申し開きをしたところで、身の程知らずのお節介にもほどがある。

でも、誰かが間違えないようにするために、また誤った内容を発してしまった人が信頼性を失わないためにも、必要な出しゃばりだったのだと少しくらいは思いたい。

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SNS上で慎重に言葉を選び、精緻な情報発信に尽力している専門家はたくさんいる。そこにアクセスできれば、とても有意義だと思う。噛み砕いた情報が手軽に手に入る。

多忙な中で広く一般に資するための行動を続けることは、決して容易いことではないはずだ。多忙を極める職業でありながらそれにあたるのは、相当の労力を要すると思う。尊敬する。

ただその情報の利用は、発信者の専門分野や内容を見極める力量と、いざとなったら離れられる距離感があればこその話ではある。

直接やりとりが出来るからといって、主治医とは異なり、個別にカスタマイズされた情報を得られるわけではない。ごく平均的な病態以外については、敢えて言及されないことも多い。

また、本来は有料であるべきものを無料で見ているという自覚はあったほうがいいと思う。個別の医療相談を持ち掛けるなどして、気安く搾取をしないために。

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どのような情報であれ、どのメディア(SNSもメディアのひとつ)が完璧に正しく、他が完全に駄目ということはまず有り得ない。

人は持っている限られた知識の中で、見たいものを見たいように見る。
一度貼り付けたレッテルを剥がすことは困難だが、それが正しいとは限らない。バイアスは目を曇らせる。

どのような情報元の発信であれ、手軽に手に入る情報は、誰かの目を通してフィルターで漉されたものだ。噛まなくてよい分、何かが失われていたり、語弊や誤りやバイアスが含まれていないとは限らないのだ。

だがド素人でも、デマや不正確な情報に流されたり加担しないために自衛することは、まったく不可能ではない。

一次ソースに触れ、自らの内に複数の目を持つこと。多くのものからすりあわせて、面倒臭がらずにしっかり取捨選択をすること。批判的な視点を忘れないこと。個人の正しさや感情に依存しないこと。物事には複数の分野・立場からの視点があることを、忘れないこと。そこに対立を持ち込まないこと。

そして何より、公的機関の情報をよく見ること。医療ならば、まず主治医と積極的にコミュニケーションをはかること。

自分の目で見て考える習慣を身に付け、他者に思考を明け渡さないことは、この情報過多時代に必要な自衛手段だと思う。

なつめ がんサバイバー。2018年に手術。 複数の病を持つ患者の家族でもあり いわば「兼業患者」