見出し画像

あの人の見ていた世界

昔から、ちょっとひねくれた、毒のある、でもクスリと笑える文章が好きだ。
毒とは他人に対する毒ではなく、筆者自身に対する毒。
つまり、自虐ネタ。 
最近で言うと、コラムニストのジェーン・スーさん。代表作のタイトルは「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」
もう、タイトルからして毒々しいったらありゃしない。 

子どものころは、さくらももこのエッセイが好きだった。
「さるのこしかけ」とか。
正直内容は覚えてないけれど、なんというか、あのちびまる子ちゃんの「あたしゃねえ」みたいなひねくれた文体が好きだった。(大人になってから一度も読み返していないので全然違ったらごめんなさい)
たしか小学3、4年生の頃、ちょうど学校で作文の宿題が出ていた時に読んで、影響されすぎて作文がものすごく"さくらももこ調"の仕上がりになり、先生に「なつこさんはたいへん大人っぽいぶんしょうをかきますね」とコメントをもらった気がする。 

そんなわけで、私が書く文章はなんとなくひねくれてることが多いな、と思う。もともとお笑い好きなので、自分のコンプレックスを笑いに変えたいという願望もある。

 ところが、

私の文章やツイートを見た友人に
「すごいネガティブ」とか「自己否定を感じる」と言われたのだ。

 それはマズイ。

 私はネガティブだが決してネガティブを振りまきたいわけではない。
ネガティブを通して笑いや学び(おこがましいけれど)を振りまきたいのだ。

という文章を書ききれずに下書き保存をしていたら、その数日後にさくらももこさんが亡くなったというニュースが飛び込んだ。

ちなみにこの文章のオチは「結局自虐ネタが成立するのは本当には自虐してない人だよね」みたいなことで、なんかおもしろくないな、と思って書くのを止めてしまっていた。(ちなみにちなみに、元のタイトルは「自虐ネタについての考察」だった。)

こんな文章を書いておきながらすっごいファンだった、というわけでもなく、ごく一般的な日本人の「子どもの頃はちびまる子ちゃん見てた」レベルなので悲しみよりも驚きの方が勝った。

そして、この文章はもう出せないかな。なんて思って下書き保存のまま新しい文章に取りかかっていたのだが、もう一度、彼女の文章を読んでみたい。
本当に私が書いたような自虐ネタのエッセイだったのだろうか。とアマゾンを開くと(母に問い合わせると実家にはもうないということだった)、彼女のエッセイはどれも1~2ヶ月待ちになっていた。

気長に待てば良いや。と、代表作とも言える「さるのこしかけ」と「もものかんづめ」を注文したところ、思いのほか早く届き、私はそのノスタルジーに浸ることとなる。

何がノスタルジーかというと、まず「さるのこしかけ」の、1ページ1行目。

それは
「ぢかもしれない」
という衝撃の一言から始まるのだが、
私は一気に実家のリビングのソファにタイムスリップした。

そうだ、この一言から始まるのだった。
私は思ったよりも、この本を何度も手に取っていたようだ。

おそらく20年ぶりくらいに開くであろうそのエッセイ本は、私を子どもの頃へと引き戻すとともに、新たな発見も与えてくれた。

自虐ネタなんかでは、全然なかった。

さくらももこさんは、世界を愛していた。

ちびまる子ちゃん、つまり幼い頃の自分だけではなく、家族や友人、旅行先で一度出会っただけの人や風景、すべてを。

そして彼女の愛し方とは「面白がる」ということだ。

よく考えたら、ちびまる子ちゃんのアニメだってそういう内容じゃないか。
愛すべきおバカたち。あれは本当に、さくらさんの目を通した世界だ。
きっと別の人が同じクラスを描いたとしても、「すごくバカなやつがいてイライラした」みたいな内容にしかなっていないかもしれない。

さくらさんは文章の表現力もさることながら、ものごと(それは例えば、他人がネガティブに感じることだったとしても)の面白さを見つけ、感じる天才だったんだろうな、と思う。

書く技術だけあってもきっと本当に面白い読み物はできない。
表現はなんでもそうだけど、その人自身の感じ方とか、在り方が、結局は作品の核となり人の心を打つんだ。だから、表現者の端くれ(と言わせてくれ)である私も、技術を磨くと同時に自分自身も磨いていかなきゃな、なんてことを思った。

改めてこのエッセイを読めてよかった。

ありきたりだけれど、作品は残り続ける。つまりさくらさんの愛は残り続けて、拡散されていくんだなあ、なんてことを。深夜にふと思う。

天国で、あの近所の愉快な「じいさん」達なんかと、再会しているのかな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?