かるいはおもい、おもいはかるい 後編
前編はこちら
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「ごめん、実は今日帰らなきゃ。」
石山は眠りに落ちる直前の香苗に聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。
「金曜日なのに。」
香苗はなるべく軽い音を出しながら、背中に感じる石山の腕を掴む代わりに心持ち深くベッドに腰を沈める。ビジネスホテルの硬いマットレスがぎいっと軋んだ。
毎月第3金曜日は石山夫婦の決まり事として、仕事理由以外での外泊が許可されていた。どれだけ仲が良くてもずっと同じ家に暮らすのは息が詰まることもあるだろうから、月に1度はお互い1人で自由に過ごせる夜を作ろうと新婚の頃に決めたのだという。香苗と付き合うまで、石山は毎月1人で箱根の決まった宿に泊まっていた。
「ごめん、ちょっと家に心配事があって……。」
香苗の心臓がキュウッとしまり頭が痺れてくる。
呼吸が浅くなり、だんだんと鼓動が速くなる。その音を石山に聞かれないように深呼吸をして、香苗は眉毛を八の字に、口角を上向きに。切なくも寛大な表情を浮かべて一気に上半身を起こした。
「わかった。終電逃さないようにね。気をつけて。」
こういう時にグダグダしてもいい結果になんてならない。今夜どうしても一緒にいて欲しいという欲求を心の奥に仕舞う思い切りは、たくさんの痛い経験を経てやっと手に入れた香苗の技術だ。
石山は香苗を強く抱きしめて
「ありがとう。また来週、会社で。」とサイドテーブルの上で綺麗に畳まれていたシャツに手を伸ばす。
静かに閉まった扉を見つめて、香苗は何度も深呼吸をした。この瞬間の苦しさにもだいぶ慣れた。吐く息と一緒に感情も吐き出すのが秘訣だ。
香苗の愛読書『愛される女性の心理学』27ページに載っているワークを実践する。
「悲しい、フー。寂しい、ハー。悲しい、フー。寂しい、ハー。」
そう繰り返すと次第に落ち着いてくる。今回もまた、大丈夫だ。私は自分の感情をコントロールできている。
石山の前に付き合った商社マンも、その前のカフェバーを経営する少し年老いた男も、別れたのは香苗からだった。寂しさと虚しさがピークを越え、相手の前で泣き叫んでしまう前に、香苗はいつも別れを告げるのだった。めんどくさい女だと思われるくらいなら新しい男とイチからやり直す方がマシだと思った。
明日は早く起きて少しいい朝ごはんを食べよう。この近所にモーニングをやっている洒落たカフェはあるだろうか。
それから帰り道に花を買って、食卓に飾ろう。黄色のガーベラがいい。
香苗はダブルベッドの真ん中に移り、ひとり目を閉じる。
***
月曜日、朝から冷たい雨がしとしと降っていた。
香苗はぼうっとする頭を覚ますためにコーヒーを入れようと給湯室のドアに手をかけ、その瞬間、石山の声を聞いた。
「だから!俺だって色々考えてるよ!」
香苗はギクリと身体を強張らせる。
聞いたこともない、石山の怒号だった。
給湯室の扉が開き、香苗はノブに手をかけたまま半歩あとずさる。覗かせたのは、より子の顔だった。
「あ、香苗ちゃん、お疲れさまぁ。」
目が少し赤い。そそくさと通り過ぎようとするより子の腕を、後ろから石山が掴む。
「待って、よりちゃん!今のは俺が悪かった。」
見たこともない石山の表情だった。
なんだこの顔は。あれだ。捨てられた子犬だ。かわいくて弱々しい小さな柴犬。
「ちょっとコウくん、ここ会社!」
「あぁ、うん…ごめん。」
石山は一瞬香苗を見てわずかに瞳孔を開かせたがすぐに顔を逸らした。なんだよ、無視かよ。いつも私の前では、ドーベルマンみたいにクールなくせに。
「よりちゃん、とにかく、今は怒らないで。カッとすると……たぶん身体に悪いでしょ?調子悪ければすぐ早退して。」
「わかってる。無理しない。」
石山はオフィスのみんなに気づかれないように小さく深呼吸すると、より子と香苗の間をすり抜けて行った。今度は一度も香苗を見なかった。
「えへへ、ごめぇん。昨日家でケンカしちゃったんだ。ほんとあの人、子どもみたいだよね。怒ってるのはお前だっつーの。」
オフィスに戻って行ったより子と入れ違いに給湯室に入る。香苗はツンとしたものを鼻に感じながら、開きっぱなしの電子レンジの扉を見つめる。
なんでもう一度振り返って確認するというワンアクションが出来ないんだろう。私はやってるのに。誰にも迷惑かけないように、いつも周りを気にかけているのに。
香苗はより子の胸の「石山」のプレートを思い浮かべる。それをグイと掴んでブラウスからむしり取ると、ガリガリと噛んで一気に呑み込む。自分の身体の一部にして、そうして今度は絶対に、私だけを見てくれる男と出会うんだ、と心に誓った。
誰かに見られてもいい、いっそここで泣いてしまおうか。
香苗は小さくうずくまり、震える手できゅうっと自分を抱きしめる。
電子レンジの扉は閉めないままでいた。
完
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