自分の中の関西人を召喚せよ
先日、初対面のおじさんに手相をみてもらうという謎のシチュエーションに出くわしたのだが、「あなたは生まれた土地にはとどまらない人だね。」と言われた。
今考えれば「大体の人間はそうだろ」と思わなくもないが、私は「え?!当たってます!!すごい!」と興奮し、その後も次々と過去の出来事を当てられ(た気がし)、「55歳以降運気が下がるから注意しなさい。」という忠告に落ち込んでいるナウだ。
私の55歳以降の運気についてはいずれじっくり向き合うとして、私は確かに大阪の病院で生まれたが、育ったのは愛知県だ。
大阪で生まれたのは、両親が大阪の人間だから。おそらく里帰り出産ということだったのだろう。
物心ついた頃には愛知県にいたので「地元」といえば愛知県の三河地方という所だし、家庭内では両親の関西弁と子ども達(私、兄、弟)の三河弁が飛び交っていた。
代表的な三河弁と言えば「ケッタマシンでこりん」である。これは東京で出会った何人かの三河経験者(仕事で三河地方に住んだことがある、元カレ元カノが三河地方出身者である、など)に半笑いで言い当てられたことがあり、外部の人にとっては印象的な言葉なのだろう。
「ケッタ」とは「自転車」のことであり、それに「マシン」を付随させることで三河の子ども達はシティボーイ&ガール感を演出する。「りん」は三河弁に多用される三大語尾「じゃん・だら・りん」のひとつで、「〜したらどうか」の意。つまり「ケッタマシンでこりん」は「自転車で来なよ」という意味だ。(余談:ちなみに私の地元の盆踊り『いいじゃん踊り』のサビの歌詞は「じゃんだらりんヤーレホー♪」だが、私が小学生の時にNewリリースされた『いいじゃん踊り2』のサビは「じゃーんだらーりーん、Just Rollin‘ ♪」であった。エミネムもびっくり。)
地元にいた頃の私は、両親は訛っているが自分達は訛っていない、と信じていた。その後18歳で上京した時に自分が思いっきり訛っていることに気づいて驚愕したが、上京して更に18年経ってしまったので今度こそ私は正真正銘の標準語を喋っている(はず)ナウだ。
話は飛ぶが、紆余曲折ありこの歳になって演劇の舞台に出ることになった。
私は20代前半まで演劇に情熱を注いでいたが、色々あって真っ当な社会人の道を歩もうと演劇からは遠のいていた。それが何の因果か、今こういうことになっている。
それはいいとして、先日ひとつ本番を終えた。
これは再演だった。今年の夏に上演した「鶏(ちきん)」というお芝居で、渋谷にあるカフェマメヒコという喫茶店のオーナー・井川啓央さんが脚本・演出だ。出演者の半数は演技経験のない人という変わった座組でのお芝居だった。
このお芝居の中で、私は「女」という役を演じた。
世間に流されデタラメな情報に一喜一憂し、自分の保身のためにより優秀で稼ぎのある男をモノにしようとする、メンタリストDaigoが言うところの港区女子的な役どころだ。
初演時、このキャラクターは標準語を喋っていた。
男の心を惹きつけるためにお上品に振る舞っているキャラクターだった。(誰にも言わなかったが、私的にはドラマ「あなたには帰る家がある」の木村多江をイメージしていた。)
再演にあたり、再び稽古が行われたのだが、どうも感情の動きが今一つな私に演出の井川さんが「地元の言葉で喋ってみてよ」と言った。
私の地元の言葉、三河弁はそれほどキツイ訛りではないし、あいにく脚本の中に「自転車」という単語も登場しない。しばらく喋っていないこともあっていきなり喋れと言われてもなかなかうまく喋れない。
そこで、どちらが言い出したか忘れてしまったが、「関西弁ならやれるかも」という話になった。私は愛知県育ちなので関西弁ネイティブではない。けれど、両親の関西弁をずっと聞いて育っているので、なんとなく台詞を全編関西弁に直すことができた。
すると演出の井川さんからは「いいね。表情が全然違う。これで行こう!」とのGOが出た。
おそらく本物の関西人が聞いたら多少発音に違和感のある関西弁だったが、私自身も、関西弁を喋ることで自由になれた気がした。今まで「ここの手の動きはどうしよう?」「セリフの抑揚を変えてみようか?」と考えていた部分も、自然と感情豊かに演じられた。
おそらく、私の中の「自由な関西人」のイメージが、自分の中にハマったのだと思う。
***
子どもの頃、親戚の集まりに行くのが少しだけ苦手だった。
両親は関西人で、その親戚もみんな関西生まれ関西育ち。関西人じゃないのは、親戚中で私たち兄弟3人だけだった。
親戚の数はそれほど多くないが、法事などで集まると関西人たちの会話はそれはそれは賑やかだった。
「そんでなあ、近所の〇〇さんがえらいひどいこと言いはるねん」
「おばあちゃんはほんま口悪いで!」
「僕とどっちが口悪いかいっつも競ってんねんなぁ」
テンポの良いマシンガントーク。自然と発生するボケとツッコミ。
地元の友達の中にいる時はそこそこ賑やかな私たち兄弟3人も、この関西人の集団の中に放り込まれると借りてきた猫のように大人しくなった。
大人しくしていることがなんだか恥ずかしく、兄弟3人で自分達にしかわからないネタでクスクス笑い端っこでちまちまと遊んでいた。
あんな風に賑やかに思ったことをズバズバ言えたら楽しいだろうな。
今思えば、そんな憧れにも似た気持ちを抱いていたような気がする。
そんなあの頃の憧れの関西人を、私はまざまざとイメージできる。
だから私の場合、関西弁を使うことは、単に言葉のイントネーションを変えることではなく、キャラクターそのものを変えるということなのだ。
同じように、英語を喋ると日本語で話す時よりはっきり自分の意見が言えるという人もいるのではないだろうか。
これは語彙力のなさから直接的な表現しかできないという場合もあるが、例えば「強気なアメリカ人」のイメージを自分の中に召喚して話すからキャラクターそのものが変わるということではないだろうか。(私は英語の訛りまで判別する能力がないが、イギリス英語を喋るとなんかお上品な気取った感じのキャラクターになるってこともあるんじゃないかと思う。)
もちろん関西人にだってアメリカ人にだって気弱な人はいるはずだが、私にとっては明るく賑やかで自分の言いたいことを自由に言う、それが関西人のイメージであり、その言葉を真似るだけでそのイメージを自分に取り込むことができたという話だ。それはまるで、演劇の起源とも言われている仮面劇の仮面のような役割だったのかもしれない。
「演じる」ことの面白さを、またひとつ発見したというお話でした。
実は1月に上演予定の次回作「ぽうく」も関西人の役どころの予定。もし良かったら、遊びにいらしてください!
**追記**
1月に上演予定だった「ぽうく」ですが、緊急事態宣言発令に伴い4月に延期となりました。もしチケット購入済みの方いらっしゃったらinfo@mamehico.comまでご連絡ください!
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