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遠い島の友を失った日のこと #3

自分のフィールドワークがちっともうまく進まないなかで、不定期であれ入院中の友人の見舞いをも続けることは、当時の私にとって大きな試練であり、日々が葛藤だった。病院での検査の結果、友人のサネは子宮にこぶし大の腫瘍があることが判明したが、それが良性なのか悪性なのかの判断もつかず、それ以上の検査や手術はいずれにせよトンガではできないという結論が出た。その時の私はよくわかっていなかったが、トンガの人びとは何か大きな病気−例えばガンとか−に罹った場合、ニュージーランドなどの海外で治療をするより他はなく、もちろんそれが可能となるのは渡航費や手術費を用意できる一部の恵まれた人びとだけである。サネの家族がその費用を捻出できる可能性はほぼゼロに等しかったが、彼らの所属する教会に一縷の望みを託し、なんとか援助を頼めないかと、母親のアレマは交渉を続けていた。

病院でもはやできることは無くなったが、とはいえ首都の付近にいれば何かまだ可能性があるかもしれないと、サネとアレマは病院があるのと同じ島の西側にある、アレマの妹夫婦の家にしばらく身を寄せることになった。私が当時フィールドワークをしていた村は島の東部にあり、サネたちが滞在する家は島の反対側にあったので、車を持たない私がそこを往復するには本数の少ないバスを乗り継がなければならず、かなり困難だった。徐々に自分のフィールドワークも佳境になり、もはや毎週のようにサネに会いに行くことはできなかったが、2-3週間にいちど、数日間、彼らの家に私も滞在し、一緒に過ごした。サネが痛みを訴える頻度は明らかに増えており、私が差し入れた大量の鎮痛剤も、もはや気休めにしかならなかった。表情をゆがめ、脂汗をにじませながらうずくまる彼女に対して、私たちは背中をさすったりすることしかできなかった。

私がアレマの妹夫婦の家で過ごしていたある夜、皆が寝静まったころに、サネの呻き声が聞こえた。私は目を覚まし彼女のほうを見ると、あまりの痛みに髪を振り乱している。サネは慟哭していた。家族達は飛び上がるように起き、手早く相談し、どこかに電話をした。「ナツコ、でかけましょう」とアレマは張り詰めた声で言った。そして降りしきる激しい雨の中、私たちはピックアップトラックの荷台に乗り込み、ビニールシートを被って雨をよけながら、しばらく走った。病院にでも行くのかと思いきや、着いたのは他の村の、ごく普通の民家だった。中に入ると、60才台ぐらいであろうか、1人の男性が出迎え、私たちを奥の部屋へと通した。

「彼が治療師だよ」とアレマは私に耳打ちをした。その言葉が何を意味するのか、その場にいてもまだ私にはさっぱりわからなかった。痛みでお腹を抱えたサネは部屋の真ん中に横になるように言われ、私たちは彼女を囲むように座った。治療師は、庭から葉の茂った枝を取ってきて、それを手に取り、サネの頭の先から足の先までなぞるようにして、何かよくわからない言葉をぶつぶつと呟いた。その後、ペットボトルに入った茶色いオイルを取り出し、そのオイルをサネの患部に塗り始めた。さらに先ほどの枝についていた葉をちぎり、手で揉み、それをオイルとともにサネの下腹部に塗り込んでいった。このとき彼女の腫瘍は誰の目にもわかるほど大きくなっており、その不自然に張った腹部は見ていて痛々しかった。治療師はその腫瘍に手をあて、「(腫瘍よ)行け!なくなれ!」と叫びはじめた。サネは痛みをこらえながら神妙な顔をしている。その光景に、私は呆然となった。

人間の社会には、西洋医学とは異なる伝統医療の体系があることや、「病」の概念も地域や民族によって多様であるという事実は、人類学徒であればひととおり学ぶ話であり、私もそれをいちおう理解していた。しかしいわゆる伝統的な治療や治療師を実際に目の前にしたのは、これが始めての経験だった。しかもそれが、あろうことかもがき苦しむ友人に対する治療であり、その治療が(薬草やオイルやマッサージの効果というのは多少あったとしても)彼女の今の激痛や腫瘍そのものをすぐに消すことができないのは明らかだと思われた。それでもなお、「行け!なくなれ!」と叫び続ける治療師に、私は怒りすら覚えた。なんだか悔しくもあり、ぐっと手を握りしめた。それはやり場のない気持ちだった。人類学徒としてこの状況をどう受けとめたら良いのか、私は現地の彼らの価値観や営みにどう向き合えばいいのか、頭のなかはひたすら混乱していた。

サネは結局この伝統的な治療師の元に何度か通い、痛みや容態は一進一退の状況だった。そんななか、私は修士論文をまとめるため、フィールドワークをいったん終えて帰国することとなった。調査も中途半端に終わってしまったと当時の私は感じていたし、サネのことももちろん気がかりだった。私は後ろ髪引かれる思いで、島を後にした。

その後トンガでのフィールドワークの成果を、やっとのことで修士論文にまとめた私は、博士課程へと進学することになる。そして進学する前の春休み、修士論文の内容を学会で発表することになった。はじめての学会発表ということで若干緊張感もあったように思う。少ししゃきっとした格好をして学会の会場に向かい、他の人たちの発表を聞いていたときのことだ。非通知の番号から私の携帯に繰り返し着信があった。あまりにも連続して呼びつづけるので、会場の外に出て電話を取ったのだが、なんだか雑音が多くよく聞き取れない。迷惑電話かと思って切ろうとしたその瞬間、「ナツコ!」と言われたのでハッとした。それはサネの母のアレマだった。

懐かしさに思わず「久しぶり!元気?どうしたの?」と言う私にかぶせるようにして、アレマはこう言った。「サネが死んでしまったの。」

その後にアレマが話した内容を、正直なところ私はよく覚えていない。「ナツコにはどうしても伝えたいと思って、だから電話した。とても悲しいことだけれど、またナツコがトンガに来たら会いましょう」といったことだったように思うが、もはやよくわからない。

その電話を受けた数時間後に、私は学会でトンガの研究内容を報告した。修士論文の成果を流暢に発表している自分を、どこか外から眺めているもう一人の自分がいて、あざ笑っているような気がした。強い喪失感と虚無感のなかで、はじめての学会発表は幕を閉じた。

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私の研究者としての道は、こんな虚無感からはじまったのだった。フィールドで出会った大切な友人ひとりを救うこともできず、それにもかかわらず、そこで見聞きした「知見」を日本で話す自分に、嫌気がさし、心が折れそうになることもあった。それでもやはり、恩師の言うところの「認識の徒」として、ずっとトンガの人びとに向き合い続け、何かを自分なりに考え続けることに意味があるのだろうと信じて、どうにかこれまでやってきた。あのときの葛藤や胸の痛みは今でも生々しく呼び覚まされるし、サネのことを思うとぽろぽろと涙がこぼれる。けれど彼女をはじめとする生身の人びととの出会いにこそ、あるいは死者との別れにこそ、自分のフィールドワークは支えられてきたし、これからも自分はそうした記憶に支えられ、奮い立たされていくのだろうと思う。


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