失われた町ヴィトッツァで感じたアクロポリスの神聖さと洞窟の住居跡
ある晴れた冬の日、中部イタリア、トスカーナ州南部をドライブ中にみつけた道路標識「La città perduta Vitozza(失われた町ヴィトッツァ)」。
興味をそそられ何の知識もないままヴィトッツァに行って見ると、想像していた以上にとても興味深い、廃墟となった教会や洞窟の住居跡をみることができました。
トスカーナ州南部にあったヴィトッツァの町は、遅くとも11世紀の終わりにアルドブランデスキ家によって建てられた城塞を中心に生まれました。そこから領主が何回か変わったのち、1455年都市国家シエナが支配していたヴィトッツァをオルシーニ家に手放すにあたり、城塞やお城、教会を破壊したため衰退しはじめ、今では誰も住んでいない廃墟となりました。
それでもなお、1700年代まで細々と洞窟の中で生活を続けていた人がいたのです。そして、その人達の名前が、当時の領主であったロレーヌ家が1783年に行った国勢調査の記録に残っていて、洞窟の前のパネルに書かれています。貴族は豪勢な宮殿に住んでいた時代。洞窟の中での生活は、夏は涼しいかもしれませんが、冬は大そう厳しかったと想像できます。ヴィトッツァには、全部で200ほどの洞窟が残っています。
そして、丘の一番高い場所には、教会の跡が残っています。
この崩れた教会跡で感じた神聖さや解放感は、エトルリアの都市タルクィニアのアクロポリス、ペガサスが今でも飛び立ちそうな女王の祭壇がある丘の上と規模は小さいですが同じような感じでした。
この教会にたどり着くまでに何組かの散歩をしている人達と出会いましたが、この教会には他に人は誰もいなく、真冬なのにポカポカと日差しが暖かったこの日の午後、草原に寝転びながら時を過ごしました。
後でわかったことですが、エトルリアの研究をされていたジョヴァンニ・フェオ氏によると、確たる証拠はないものの、ヴィトッツァはこの地方一帯の洞窟住居と同じように青銅器時代の終わり頃にヴィッラノーヴァ人が居つき、後に到来したエトルリア人と融和して住み着いたことが起源だそうです。
もし、それが本当であるならば、教会の場所にはもともとエトルリア人の神殿があったのかもしれません。何も記録は残っていませんが、教会跡で感じた神聖さはあながち間違いではなかったのではないかと思いました。
この経験の後、エトルリアの12都市連盟の一つだったオルヴィエートの丘の上の一番高い場所を散歩中、再びこの神聖さを感じました。何度もその場所を歩いていますが、このような感覚を得るのは初めてのことでした。その場所には、現在サン・フランチェスコ教会が建っています。サン・フランチェスコ教会は、現在の大聖堂が建設されるまではオルヴィエートの大聖堂でした。私は、鈍感なタイプですが、その時、神々からのメッセージというのは感じようとしたら、感じられるようになれるのではと思いました。ただ、ヴィトッツァや、タルクィニアでは神聖な場所から解放された丘の連なりが見えるのに対し、この場所は建物によって視界は遮られます。現在は私達の生活のみならず神様(特にキリスト教において)の住居も自然から遠のいているのを感じました。
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